世界平和と日本国憲法・2
昨日のブログに引き続き、伊藤真さんの講演から↓
現行日本国憲法前文の2段落目を見てみましょう。「日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とありますが、この部分は、一部の人々から、「公正と信義に信頼」することなどとうてい出来ないような国家もあるじゃないかと批判されたりしています。
しかし、ここは「国家」でなく、「諸国民」となっています。英語では peace loving peoples という言葉が使われています。
どんな国家にも平和を愛する諸国民 peace loving peoples がいる。そういう人々と連帯し信頼関係を強めていくことが大切です。
この段落の最後、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という部分は私が一番好きなフレーズです。
どこの国の憲法も、自分の国民のことを中心に謳っています。ところが、我々の憲法は全世界の国民について書いているのです。こんな憲法があるでしょうか。またここでは、平和というものを「人権」として捉えていることが重要です。「平和的生存権」を人権とすることにより、その時々の多数決でも奪うことが出来ない価値があるということになるのです。
これに対し、新憲法草案では、「国際社会において・・・圧制や人権侵害を根絶するため、不断の努力を行う」とされています。よいことのように聞こえますが、根絶するために何をするのか、手段が限定されていません。「圧制や人権侵害を根絶するため」という名目で、他国に武力を持って介入していくということになりかねません。
次に第2章をみてみましょう。まず、章立てが変わります。現行の憲法では、第2章は「戦争の放棄」となっていますが、新憲法草案では第2章が「戦争の放棄」から「安全保障」という名に変わっています。戦争の放棄という言葉が放棄されています。
現在の第2章、第9条には、1項と2項があります。そして、1項は新憲法草案でもそのまま横滑りで残ります。しかし、9条1項には「国際紛争を解決する手段としては」という言葉があります。これは侵略戦争を放棄した条文と一般に解釈されています。ですから、侵略戦争以外であれば合憲という解釈がなりたちます。
しかし私達の憲法は9条の2項があるので、これで全ての戦争は放棄ということが言えるわけです。2項は、戦力は持たない、交戦権を保持しないと言っているからです。1項で自衛のための戦争は可能だという解釈はできたとしても、その戦力が自衛のためか、侵略のためかという判断は困難です。つまり、(2項がなければ)武力を持つ上で、自衛のためか、侵略のためか判定がつかず、何の歯止めにもならないということが起こります。
現行憲法の下では、通説は、9条2項によって戦力はすべて保持しない、戦争もしないと解釈しています。これに対し、政府の解釈は、現在の自衛隊は憲法9条が禁止する「戦力」ではなく、必要最低限の「実力」ですと言っています。ですから、政府解釈によると、国防上必要最小限のことは自衛隊でできることになります。2項を削除するのは、自衛のための必要最低限を超える何かをさせたいからにほかなりません。「自衛隊を自衛軍に看板をかけかえるだけだ」というのは嘘なのです。
そして9条の2で自衛軍の規定を創設しようとしています。1項には「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する。」と書かれています。この書き方の順番に注目しますと、国の平和や国の独立を守るということを第一義においており、国民を守るというのは付加的なものにすぎないことがわかります。
しかも9条2の2項で、自衛軍の活動につき、「国会の承認その他の統制に服する」となっていて、国会の承認が必ずしも必要でなくなっています。「その他」の統制でもよいことになっています。
9条2の3項では「国際社会の平和と安全を確保するために、国際的に協調して行われる活動」などについて書いています。一見、ごもっとものように聞こえますが、その前に「法律の定めるところにより」というフレーズが入っています。憲法というものは、時の政権による多数決でも覆せないという点に意味があります。このように法律に丸投げしてしまったら、時の政権が強行採決などで何とでもすることができてしまい、憲法に書く意味がなくなってしまいます。
徴兵制の条文はありませんが、新憲法草案前文に「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」とあり、軍隊を保有するのですから、徴兵制は法律上可能となります。
我々は世界の平和を願うというあえて非常識を謳いました。確かに憲法9条は非常識かも知れません。しかし100年後、200年後の常識となることを目指して主張し続けるべきです。200年前にアメリカで「奴隷制反対」と言えば非常識でした。ですが、今、「奴隷制反対」と言えば「何を当たり前のことを言っているのか」といわれるでしょう。
「憲法9条は現実に合わないから変えよう」と言う人がいます。しかし、理想と現実が食い違うことなどいくらでもあります。
憲法14条に「法の下の平等」の規定があります。しかし、世の中には差別がたくさんあります。では「現実に合わせて、不平等でもよいことにしましょう」なんてバカなことは誰も言いません。憲法25条で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障されていても、その最低限度の生活が出来ない人々もたくさんいます。
現実との間にずれがあっても、憲法は理想を示し、方向性を示すべきです。これを削除してしまったら、方向性を見失ってしまいます。
北朝鮮や中国を脅威だという人がいます。脅威に感じるとしたら、それは軍備を持っているからではありません。軍備ならアメリカが一番持っています。しかしアメリカとの間には信頼関係があるので誰も脅威には感じていません。脅威に感じる国があるとしたら、それはそれらの国との間に信頼関係が築けていないからです。
東西ドイツを分けるベルリンの壁が崩壊したのはなぜでしょう。壁の向こうに友人がいれば、壁は壁でなくなるのです。平和を愛する諸国民は、どこの国にも必ずいます。そういう人々と信頼を築いていくことが大切です。
オタクのコーナー
空手に「三角飛び蹴り」という技がある。
直接相手に飛び蹴りするのではなく、まず、違う方向にある壁や木に向かって飛ぶ。そして、その壁や木を蹴った反動で今度は相手に向かって飛んでいって蹴る・・・というのだが、いくらやってもどうもうまくいかない。力学的に考えて、そんなことがうまくいくのだろうか。実戦でそんなことをする人が一人でもいるのだろうか。垂直に立った壁や木の反動でそう都合よく相手に向かって飛べるのだろうか。
現行日本国憲法前文の2段落目を見てみましょう。「日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とありますが、この部分は、一部の人々から、「公正と信義に信頼」することなどとうてい出来ないような国家もあるじゃないかと批判されたりしています。
しかし、ここは「国家」でなく、「諸国民」となっています。英語では peace loving peoples という言葉が使われています。
どんな国家にも平和を愛する諸国民 peace loving peoples がいる。そういう人々と連帯し信頼関係を強めていくことが大切です。
この段落の最後、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という部分は私が一番好きなフレーズです。
どこの国の憲法も、自分の国民のことを中心に謳っています。ところが、我々の憲法は全世界の国民について書いているのです。こんな憲法があるでしょうか。またここでは、平和というものを「人権」として捉えていることが重要です。「平和的生存権」を人権とすることにより、その時々の多数決でも奪うことが出来ない価値があるということになるのです。
これに対し、新憲法草案では、「国際社会において・・・圧制や人権侵害を根絶するため、不断の努力を行う」とされています。よいことのように聞こえますが、根絶するために何をするのか、手段が限定されていません。「圧制や人権侵害を根絶するため」という名目で、他国に武力を持って介入していくということになりかねません。
次に第2章をみてみましょう。まず、章立てが変わります。現行の憲法では、第2章は「戦争の放棄」となっていますが、新憲法草案では第2章が「戦争の放棄」から「安全保障」という名に変わっています。戦争の放棄という言葉が放棄されています。
現在の第2章、第9条には、1項と2項があります。そして、1項は新憲法草案でもそのまま横滑りで残ります。しかし、9条1項には「国際紛争を解決する手段としては」という言葉があります。これは侵略戦争を放棄した条文と一般に解釈されています。ですから、侵略戦争以外であれば合憲という解釈がなりたちます。
しかし私達の憲法は9条の2項があるので、これで全ての戦争は放棄ということが言えるわけです。2項は、戦力は持たない、交戦権を保持しないと言っているからです。1項で自衛のための戦争は可能だという解釈はできたとしても、その戦力が自衛のためか、侵略のためかという判断は困難です。つまり、(2項がなければ)武力を持つ上で、自衛のためか、侵略のためか判定がつかず、何の歯止めにもならないということが起こります。
現行憲法の下では、通説は、9条2項によって戦力はすべて保持しない、戦争もしないと解釈しています。これに対し、政府の解釈は、現在の自衛隊は憲法9条が禁止する「戦力」ではなく、必要最低限の「実力」ですと言っています。ですから、政府解釈によると、国防上必要最小限のことは自衛隊でできることになります。2項を削除するのは、自衛のための必要最低限を超える何かをさせたいからにほかなりません。「自衛隊を自衛軍に看板をかけかえるだけだ」というのは嘘なのです。
そして9条の2で自衛軍の規定を創設しようとしています。1項には「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する。」と書かれています。この書き方の順番に注目しますと、国の平和や国の独立を守るということを第一義においており、国民を守るというのは付加的なものにすぎないことがわかります。
しかも9条2の2項で、自衛軍の活動につき、「国会の承認その他の統制に服する」となっていて、国会の承認が必ずしも必要でなくなっています。「その他」の統制でもよいことになっています。
9条2の3項では「国際社会の平和と安全を確保するために、国際的に協調して行われる活動」などについて書いています。一見、ごもっとものように聞こえますが、その前に「法律の定めるところにより」というフレーズが入っています。憲法というものは、時の政権による多数決でも覆せないという点に意味があります。このように法律に丸投げしてしまったら、時の政権が強行採決などで何とでもすることができてしまい、憲法に書く意味がなくなってしまいます。
徴兵制の条文はありませんが、新憲法草案前文に「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」とあり、軍隊を保有するのですから、徴兵制は法律上可能となります。
我々は世界の平和を願うというあえて非常識を謳いました。確かに憲法9条は非常識かも知れません。しかし100年後、200年後の常識となることを目指して主張し続けるべきです。200年前にアメリカで「奴隷制反対」と言えば非常識でした。ですが、今、「奴隷制反対」と言えば「何を当たり前のことを言っているのか」といわれるでしょう。
「憲法9条は現実に合わないから変えよう」と言う人がいます。しかし、理想と現実が食い違うことなどいくらでもあります。
憲法14条に「法の下の平等」の規定があります。しかし、世の中には差別がたくさんあります。では「現実に合わせて、不平等でもよいことにしましょう」なんてバカなことは誰も言いません。憲法25条で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障されていても、その最低限度の生活が出来ない人々もたくさんいます。
現実との間にずれがあっても、憲法は理想を示し、方向性を示すべきです。これを削除してしまったら、方向性を見失ってしまいます。
北朝鮮や中国を脅威だという人がいます。脅威に感じるとしたら、それは軍備を持っているからではありません。軍備ならアメリカが一番持っています。しかしアメリカとの間には信頼関係があるので誰も脅威には感じていません。脅威に感じる国があるとしたら、それはそれらの国との間に信頼関係が築けていないからです。
東西ドイツを分けるベルリンの壁が崩壊したのはなぜでしょう。壁の向こうに友人がいれば、壁は壁でなくなるのです。平和を愛する諸国民は、どこの国にも必ずいます。そういう人々と信頼を築いていくことが大切です。
オタクのコーナー
空手に「三角飛び蹴り」という技がある。
直接相手に飛び蹴りするのではなく、まず、違う方向にある壁や木に向かって飛ぶ。そして、その壁や木を蹴った反動で今度は相手に向かって飛んでいって蹴る・・・というのだが、いくらやってもどうもうまくいかない。力学的に考えて、そんなことがうまくいくのだろうか。実戦でそんなことをする人が一人でもいるのだろうか。垂直に立った壁や木の反動でそう都合よく相手に向かって飛べるのだろうか。