色々と言われてはいるものの、結局「LGBT理解増進法」が可決された。

なんだかこれまで法律制定を推進してきたLGBT側は「差別増進法」だと不満足のように見えるが、日本社会が「LGBTの存在を認めた」ともとらえ、一歩進んだと評価できるのではないか?

もちろん、後世には「『北海道旧土人保護法中改正法律』の二の舞だった」とされるかもしれないが、可決された「LGBT理解増進法」は「現在の日本社会における最善」だったことも厳然たる事実だと思う。

 

さて、今回は『海遊録』という文献に現れた江戸時代日本の先進性(?)を紹介したいと思う。

『海遊録』は徳川吉宗の将軍職就任を祝う(朝鮮)通信使として日本に派遣された申維翰(シン・ユハン)が漢陽(現在のソウル)を出発する1719年4月から漢陽に復帰する1720年1月までを記録した一種の紀行文である。

ちなみに、申維翰は「製述官」とう役職で派遣された。

「製述官」とは、日光の東照宮を参拝する際に読み上げる祝文(典礼文)を担当する役職であった。

筆談で日本人と互いに思想交換をする「筆談唱和」の中心的な役割を担った役職でもあった。

結構な文章力の持ち主で、学識も高く評価されていた人物であったんだろう。

 

一方、『海遊録』には、いわば案内人として「雨森芳洲」(雨森東)が登場する。

対馬出身で、朝鮮語教科書といえる『全一道人』『交隣須知』を著し、

「韓語司」という朝鮮語通訳の学校を創設するなど、

今でいう「韓国通」であった。

(申維翰と芳洲の間には、現代の視点から見ても面白いエピソードが結構あるようだ。余裕があれば、紹介したい。)

 

その『海遊録』には、本編のほかに付編として「日本聞見雑録」がある。

本編は日記体で記録したものであるのに対し、付編は総括的な日本観察である。

その付編には、以下のように、維翰が観察した日本の風俗と、それに関する芳洲とのやりとりが記録されている。

 

 日本の男娼の艶は、女色に倍する。人の気にいられ人を惑わすこともまた、女色に倍する。国中の男児にして十四、五歳以上の容色絶美なる物、つややかなる髪は丱(あげまき)に結い、顔は脂粉で化粧し、被うに彩錦衣をもってし、香麝、珍佩、修飾の具だけでも千金に値いする。
 国君をはじめ、富豪、庶人でも、みな財をつぎこんでこれを蓄え、坐臥出入のときは必ず随わせ、耽溺して飽くことがない。あるいは、外に心が移れば嫉妬して人を殺すことさえある。その国俗として、人の妻妾を窃取する事は易いが、男娼には主があり、あえてこれに話しかけたり、笑いかけることもできない。
 雨森東が作った文藁に、貴人繁華の物を叙べたところがあり、曰く、「左蒨裙而右孌丱」と。余はこれを差して曰く、「この孌丱というのは、いわゆる男娼のことか」。答えて曰く、「然り」。余曰く、「貴国の俗は奇怪きわまる。男女の情欲は、ほんらい天地から出た生々の理であり、四海に共通する。世間に、どうしてひとり陽だけがあって陰なく、しかして相感じ相悦びうることがあろうか」。雨森は笑って曰く、「学士はまだその楽しみを知らざるのみ」。雨森如き人でも、言うところがなおこのようである。国俗の迷い惑うさまを知るべし。

姜在彦 訳注(1974)『海游録』初版 p.315より

*単語解釈などは若衆文化研究会 (seesaa.net)を参照希望

**上記のリンクでは「孌」を「戀(恋)」としている。両者は代用されることもあるが、厳密にいえば「孌」が正しい。

 

太字にした維翰()と芳洲()のやりとりを現代風にふざけて再構成すれば、こうなるだろう。

:(芳洲の詩集を読みながら)おーい、お前が作った詩の中に「左蒨裙而右孌丱」という句があるけど、この「孌丱(うつくしいあげまき)」って、ぶっちゃけ「ボーイ」のこと?

:そうだよ。

:いやー、お前らめっちゃ気持ち悪いな。男と女が引かれあうことは森羅万象を貫く真理なんだぜ。磁石を見ても、N極とS極はお互い引きあうけど、同じ極同士は反発するんだろう。そんなの何がいいんだかさっぱりわからんな。

:そりゃ、おぬしがその楽しみをまだわかってないだけなんだよ(笑)

:(やれやれ。芳洲くらいの人物でさえこのありさまじゃ、ほかの倭人どものレベルなんか知れたもんだぜ。)

 

芳洲自身はその楽しみ(?)の当事者であったかどうかは微妙であるが、

少なくとも、それは日本社会一般に行われていて、芳洲自身も拒否感がなかったようである。

 

ともあれ、この逸話から、300年前の日本はLGBT(厳密には男性間の性行為)への理解度が、韓国(朝鮮)はもちろん、

現在の日本社会より、はるかに進んでいたことを示している、極めて重要な資料であると思う。