人生の意味を考えるときにひとつ重要な問題がある。

「そもそも人生に意味なんてあるのか」という問題である。

もともと意味がないのであれば、生きがいをもつために「意味」をこじつけることができたとしてもそれは欺瞞であり空しい。

意味のない人生を真正面から見つめると藤村操状態になってしまう。

そして「意味がない」ということを証明するようにみえる事実がいくつかある。

先ず、人生の意味や目的を考えるときにすでに人生がスタートしているという事実がある。

だから意味や目的は後付で考えているということになる。

外出するときに普通は目的地が決まっていてそれから外出する。

外出する目的は何かと聞かれれば即座に答えられるのが普通であり、この場合「外出の目的」は確かにある。

しかし、外出してしまった後に「外出の目的は何か」と考えるとすればそもそも外出の目的はなかったということになる。

人生というものが自分の意思とは関係なく始まっているという事実は自分の人生にはそもそも意味がないんだと考えさせるには十分に足りる。

そしてさらにそもそも自分が生まれたのは一体なぜか。

「何故」という問いには色々なレベルの問いがあるが、きわめて物質的には両親の夫婦の営みが原因であったという答えとなる。

それがもし、単なる動物的、本能的なものでしかなかったとすれば場合によっては妊娠が望まれなかったものかもしれない可能性もある。

つまり自分の命は偶然でありたまたまであったとなれば、これも人生に意味はないという論理を立証する内容となる。

サルトルが似たようなことを言っていたっけ。

さて、どうするか。

人生の意味があると考えるには非常に不利な内容がはっきりとしてきた。

ただ、自分にとって救いだったのは母が自分を産むときにお百度参りをしてくれたということである。

たまたま生まれてきたのではなく一人の女性の祈りがあったということ。

これは本当に自分の人生にとってどれほど力づけてくれただろう。

つづく