大宰府を後にした天保銭一行。
次なる目的地は百名城の一つ大野城址。
・・・が、天保銭はこの辺りの地理に全く疎く。ガイド役を務めていただいた方は余り城跡には興味がなく。
なかなか一筋縄では行かず、紆余曲折の末、辿り着いたのがこちらの本丸跡。
・・・本丸跡!?
大野城は飛鳥時代築城の古代山城。本丸などあったか・・・と思っていたら、こちらは岩屋城址の本丸でした。
岩屋城。
ご存知の方はかなりのマニアかと。
城としては、筑前の立花城の支城の位置づけとなる山間の防衛拠点の一つで、戦国期には全国にまま見られたものです。
が、この岩屋城はただの防衛拠点に非ず。
この地を守るは、九州の名門大友氏家中でその武勇を詠われた高橋紹運。
南方から押し寄せる島津5万の大兵に対し、城に篭るは僅か763名。
本城立花城を守るため、関白秀吉九州平定軍が来るまでの時を作るため、70倍の敵に対し絶望的な戦を仕掛ける・・・
ここで高橋紹運は自ら以下城兵763名の全滅と引き換えに15日間という貴重な時を作り、攻め落とした島津勢は15日の時間と死者3700余名、負傷者1500名と全軍の1割を失うことになる。
このため、島津勢は秀吉の上方軍到着までに立花城を落とせず、翌年秀吉25万の軍勢の前に屈服。
九州の戦国史のターニングポイントとなった城なのです。
写真は岩屋城本丸から見た大宰府方面。
おそらく高橋紹運は眼前に展開する5万の島津兵をここから見下ろしたことでしょう。
絶望的な戦いの中、紹運は何を見たのか。
岩屋城は百名城の中には入っていない、ありふれた小城ですが、含有しているドラマにはそこらの百名城には劣らないものがあります。
思わぬ岩屋城址との遭遇でテンションが上がった後、当初の目的地である大野城址の百間石垣に到着。
飛鳥時代の663年に朝鮮半島の白村江の戦いで倭国は百済と組んで高句麗・唐の連合軍と戦い、敗れています。
白村江での敗戦後、本国の防衛のため倭国が九州の地に築いたのが、この大野城。
飛鳥時代の城ですので、朝鮮式の山城であり、一般の方が「城」と聞いてイメージする、天守を備えた城とは一線を画す古代の城です。
当初の予定では大宰府からここまで4時間ほどかけて徒歩で縦貫する計画だったのですが、酷暑の折。とても無理であったと己の無謀さを反省するとともに、わざわざ車を出していただいたガイド役を務めていただいた方に改めて感謝した次第。
基本的に自然の要害を利用した山城なのですが、現代人から見て城であることが一番分かりやすい百間石垣付近を散策。
古代史は専門外の天保銭ですが、こういった古代の築城法が、中世~戦国初期の土塁を主とした城を経て戦国後期~近世の天守を有する日本的な城郭へと移行していくのかと思いを馳せると中々興味深いものです。
こちらは、地理的に四王寺山の一隅と被っていますので、至る所に札所となる石仏があるようでして。
百間石垣の所にも巨石の洞に素朴な石仏を発見。
清水が湧き出ており滑りやすく、打ち込まれたロープを握り締めての参拝となりましたが、古来より何人の方がこの石仏の前で手を合わせたことか。
・・・感慨深いものがあります。
ただ、この一帯。水辺を見るに、猪を始めとする大型の哺乳類が闊歩しているエリアのようでして。
散策の際は少々注意が必要かと・・・。