4月23日から二泊三日で和歌山県橋本に宿泊して高野山の旅に出かけてきた。
高野山には20数年前にバスツァーで宿坊に一泊して以来の訪問となる。
橋本市に足を踏み入れるのは初めてであり、また未訪の数少ない市の一つである。
橋本市内のホテルが少なく、また足の便を考えて駅前のホテルを直接予約。
当日は雨との予報もあり、ホテルの御主人と何度も電話で相談する。しかし週末からはゴールデンウィークに入ることもあり、雨を覚悟で出かけることにした。
二日間は傘を持参して歩き回ったが、予報に反して初日は時々小雨、二日目の高野山では全く降らなかったのには感謝しかない。
新大阪経由で地下鉄なんば駅に、南海高野線電車に乗り換えて橋本駅に向かう。
地下鉄から南海電車への乗り換えが大変と予想していたが、前回の旅で懲りたので事前の準備により難なく乗り換えできた。
橋本駅に着いたのは13時半。
駅のコインロッカーに荷物を預ける。思ったよりも小雨なので安心する。
南海高野線に乗って三つ目の九度山(くどさん)駅に向かう。
九度山駅舎は小さいながらも特色のある駅である。
駅構内に小さな「おむすび、お土産」の売店がひっそりとあるのも面白い。
ただ人の乗り降りは極めて少ない。
駅前から道を下って紀の川の支流丹生川に架かる橋を渡る。
さらに蛇行している丹生川に架かる橋をまた渡る。
写真は橋からの丹生川の眺め。
人の往来はほとんどないが、車は結構走っている。
川沿いの道を歩いてゆくと右手に目指す真田庵こと善名称院(ぜんみようしょういん)が白塀を廻らしている。
正門は西側に建っている。
ここの本堂は庫裏と繋がって複雑な屋根になっている八棟造(県文化)で安政4年(1857)築。
写真の正面左の一間が本堂。
宗派は高野山真言宗、山号は加羅陀山。
創建は寛保元年(1741)に大安上人が開基。
本堂・庫裏の建物を横から撮った写真。
本堂の向かい側に真田昌幸の墓と真田地主大権現が祀られている。
鳥居には八文銭の紋所。
関ケ原の戦いで敗れた眞田昌幸、幸村父子は高野山に配流になり、昌幸はここで死亡し、幸村は14年間隠れ住んだ屋敷跡に創建された。
さらに開創大安上人廟所霊屋(県文化)は安永3(1774)築。
隣に建っている土砂加持信仰の土砂堂(県文化)は明和9年(1722)築。
雷封じ井戸があり、幸村が雷をこの井戸に封じ込めたとの伝説が残る。
ここを訪ねた与謝蕪村の歌碑二句もある。
「炬燵して語れ真田が冬の陣」
「かくれ住んで花に真田か謡かな」
また庫裏横はお花畑になっており、ボタンの花が盛りであった。
北側には通用門が開いているが、見た目にはこの門が一番立派である。
真田庵のすぐ隣にも白塀を廻らした家があるので入って行く
「そば処真田庵」であり、前面に庭園も設えてある。