白河駅に戻り、路線バスに乗って白河の関跡を訪ねることにする。
このバスは朝一本、夕刻二本しか走っていないが、往復共にバスを利用するにはこの時刻のバスに乗るしかない。
約30分余りであるが、乗客は私と市内で乗ってきた女子高校生一人のみであった。
白河の関は奥州三古関として奈良時代から平安時代に帰農していた国境の関所である。
律令制度の崩壊とともにその機能は失われたが、歌枕として文学の世界で憧れの地となり、能因、西行、松尾芭蕉などが訪ねて多くの歌を残しており、歴史好きの人には必見の地でもある。
バス停は白河神社の参道入り口にある。
写真は参道入り口の石碑と石仏群。
とりあえずバス通りを戻って行き芭蕉句碑、「庄司戻しの桜」をたずねようと歩きはじめるが、句碑はあったがバス停二か所近くまで戻っても見当たらないので、帰りのバスの時間もあり慌てて引き返す。
写真は芭蕉の句碑「西か東か先早苗にも風の音」
白河神社参道の石段。
参道の石段手前右に古関蹟碑(写真左)が立っている。
白河藩主松平定信が寛政12年(1800)に、この場所が白河関跡に間違いないとして立てた碑である。
その横にある「幌掛の楓」(写真右)は源義家が前九年の役で白河関を通過した時、社前の楓に幌を掛けてしばらく休息したという。楓は当時のものではなく何代目かであろうが、どの楓かよく判らない。
さらにその前に「旗立の桜」の説明版があるが桜の木らしいものは見当たらない。
源義経が平家討伐のため平泉を発って、社前で戦勝祈願をした時にこの桜木に源氏の旗を立てたとの伝説。
伝説ばかりであるが、その奥に「従二位の杉」の大木が聳える。
鎌倉初期の歌人である藤原家隆が手植えをして奉納したと伝わり、樹齢は800年。
深い樹林の中の石段を登ると、途中「矢立の松」の説明版。
源義経が平家追討に向かう時、戦勝を占うために松に弓矢を射立てたという伝説であるが、今は根株らしきものがあるとのことだが何も見えなかった。
物音一つしない森閑とした中、石段を登り詰めると白河神社の社殿がある。
社殿は伊達政宗の寄進によるとあるが、見るからに新しい建物であり、一気に現実に引き戻される。
社前で一人の若者が何か作業をしておられた。
社殿前の右手に古歌碑が立っている。
平兼盛、能因法師、梶原景季が白河の関を詠んだ平安時代の歌三首が刻まれている。
平兼盛(?~990)
「便りあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと」
能因法師(988~?)
「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」
梶原景季(1162~1200)
「秋風に草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし」
社殿の右手の林の中に空堀と土塁があり、中世にはこの辺り全体が居館であったという。
昼なお暗い樹林の中に石碑が点在しているが、説明版がないため判らない。
写真は昭和41年にここが国史跡に指定されたことを記念して建てられた碑。「奥の細道」の紀行文の白河の関の一節が刻まれている。