いよいよ国上寺の駐車場に着き、タクシーを降りる。
一地時間後に迎えにくるとのこと。
かなりの観光客が見えており、この寺の人気のほどが覗える。
国上寺の創建は709年という古刹。
真言宗豊山派の寺院、山号は雲高山。
標高313mの国上山の中腹に位置している。
石段を登ると池に架かる太鼓石橋があり、その先に本堂が建っている。
現在の本堂は30年がかりで1818年に再建された堂々たる建物。
細かい組物が見事で窓も優雅。
本尊は上品上生阿弥陀如来木造座像で、子の年のみご開帳。
本堂前には枯れた五鈷掛けの松があり、また鐘楼は1715年に再建された。
戦国時代には上杉謙信の信心厚く10万石の格式を持ち、七堂伽藍が整い山中に二十一ヶ寺、末寺百三十有余ヶ寺、修行僧千人を置いて祈祷所として隆盛を極めたという。
本堂の左前に六角堂が建っている。
義経が奥州に落ち延びる途中、当寺に参詣。
無事を祈って持仏大黒天木造を寄進したという。
その後1816年に六角堂を建立し安置した。
右手に建つ大師堂は御仮堂とも言われる。
1718年に本堂再建に当り、本尊を一時保存するために建てられたもの。
少し境内を下がったところに客殿、寺務所、庫裏が建っている。
客殿は1737年に建てられ、千手千眼観世音菩薩を安置している。
またこの寺は謡曲「禅師曽我」の舞台でもある。
曽我十郎・五郎の弟が、この国上寺で禅師坊となっていたが、鎌倉から軍兵が押し寄せて生け捕りにされたという。
なお禅師はこの時まだ18歳だった。
質素な西山門をくぐると、かなり急な下り道があり、途中に鏡井戸がある。
先ほど述べた酒呑童子伝説で、悪鬼の形相になった童子が自分の顔をのぞいた井戸とのこと。
さらに急坂道を下って良寛ゆかりの五合庵を目指す。
ここまで訪ねる観光客はさすがに少ない。
辿りついた五合庵は只今工事中で、覆いがしてあったのは残念無念。
良寛は全国を放浪の後、47歳から59歳までこの庵に住み、さらに先ほど訪ねた乙子神社草庵に移った。
五合庵の名は国上寺の客僧万元が毎日粗米五合を住職から受けていたことによる。
なお現在の堂宇は大正3年の再建とのこと。
さらに坂道を下がり切ると塔頭本覚院に至る。
本尊は大日如来。
よく見ると寺の前は駐車場になっており、ここから逆に国上寺を訪ね登るコースもある。
写真は質素な山門。
境内の一角にどこでもよく見られる弁慶池がある。
さらに脇道を入ったところにある塔頭宝珠院も訪ねてみた。
質素だが立派な本堂。
ここから今度は急階段を登って行き、本堂を経てようやく元の駐車場に戻る。
頼んでおいたタクシーが既に着いていた。
この後予定を急遽変更して、分水の町並みを散策することにした。