7号線を戻り、青垣インター近くにある道の駅で一休み。
地元の野菜など直売していたので、見繕ってお米と一緒に息子のところに送る。
さらに7号線を南に走り、氷上地区に入って御油交差点のすぐ先を右折、村はずれの山裾にある神野神社を訪ねる。
御油という地名は珍しいが、古より桐の実の油を下賀茂神社使用の御燈明に献上していたことから地名となった由。
神野(かんの)神社も地図には出ていないが、田んぼの中の細い道を走り抜けてようやく到着。
鳥居前にある石造太鼓橋が面白く、苔むした石灯篭も風情がある。
祭神は別雷神と嵯峨天皇を祀る。
寛平年間(889~98年)の創立と伝わり延喜式内社である古社。
社殿前の灯篭二対は宝暦2年と文久元年の銘がある。
本殿は質素な一間社流造、杮葺で覆屋内にある。
正面格子戸四枚があり、その他室町末期の作風が色濃く残っている。
さらに田植えの済んだばかりの田んぼの中に走り、円通寺に。
1382年、足利義満が後円融天皇の勅命により創建。
ここも青紅葉の中の参道を進むと山門に至る。
山門の両側に安置された金剛力士像がお互いに向き合う形なのが面白い。
山門を入ったところに大きな池があり、真ん中に参道の石橋がある。
広い境内はもみじで有名。
また畔に立つご神木の一本杉は樹齢700年と言われる。
この場所は「光源氏」のモデルとされる源融が建てた賀茂大明神のご神木であったという。
宗派は曹洞宗、山号は永谷山。
江戸期には末寺200余、一千石の寺領を有していた。
本堂は江戸時代に再建されたものである。
二段屋根になっており、またいろんな形の窓がこの寺を唐風に見せている。
また本堂の屋根をはじめ、あちこちに足利家、近衛家の家紋が見えるがその格式の高さがうかがえる。
本尊は如意輪観世音菩薩。
写真は方丈。
織田信長の命により丹波攻めをした明智光秀に対して、必死に説得して兵火を免れたという寺伝や、光秀自筆の「下馬札」も残る。
おまけに参道の青紅葉の写真をもう一枚。