![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190809/12/tenpleandcinema/91/fe/j/o0292038914527145705.jpg?caw=800)
来た道を戻り、415号線を横切って、西に歩いて行き氷見線の近くまで行くと寺院がいくつかまとまって建っている。
まず光西寺をたずねる。(写真)
真宗本派の寺院であり、庫裏、お堂などに歴史を感じさせるが、本堂他が工事中であったのが残念。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190809/12/tenpleandcinema/d8/71/j/o0389029214527145710.jpg?caw=800)
すぐ近くに真宗本派の禅龍寺、光明山念仏寺は浄土宗の寺院、さらに光暁寺がある。
光暁寺は高野山真言宗の寺院で新しい鉄筋本堂。
写真は入り口で、小さな地蔵がびっしりと並んでいる。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190809/12/tenpleandcinema/f9/b9/j/o0389029214527145721.jpg?caw=800)
さらに伏木神社を訪ねた。(写真)
731年に伊勢神宮の分霊を勧請し神明社とし、家持も崇敬したという。
海岸鎮護、住民の守護神として信仰が厚い。
現在地には1813年に移ってきた。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190809/12/tenpleandcinema/5d/6f/j/o0389029214527145727.jpg?caw=800)
祭神は天照大御神、豊受大御神、菅原道真、応神天皇、神功皇后、迦具土神。
毎年5月15日の例祭の「曳山まつり」は盛大とのこと。
写真は鉄筋の社殿。
ここから古い伏木の街の複雑な道を抜けて、伏木のメインである勝興寺を目指す。
この辺りにも寺社がいくつか立ち並んでいた。
蟹谷山龍善寺、麻生山浄光寺は真宗本派、芳野山浄蓮寺も真宗本派などなど。
この辺りにも寺社がいくつか立ち並んでいた。
蟹谷山龍善寺、麻生山浄光寺は真宗本派、芳野山浄蓮寺も真宗本派などなど。
このあとお目当ての勝興寺を訪ねたが、それは次においといて、写真の構成上からそのあと訪ねた越中国守館跡と「如意の渡」を先に述べたい。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190809/12/tenpleandcinema/25/65/j/o0389029214527145741.jpg?caw=800)
勝興寺のすぐ近くにあるという越中国守館跡を捜すが判りにくく、散歩中の人に教えて頂いてようやく探し当てる。
現在はその跡地に高岡市伏木気象資料館(写真)が建っている。
明治42年建造の日本最初の私立測候所の建物である。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190809/12/tenpleandcinema/15/40/j/o0389029214527145750.jpg?caw=800)
その前庭に越中国守館跡の碑が立っていた。(写真)
かっては大伴家持も五年間住んでいた地である。
「朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ船人」
しばし時を越えて、はるか万葉の時代に思いを馳せる。
測候所の方であろうか、熱心に草取りをされていた。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190809/12/tenpleandcinema/e3/6d/j/o0389029214527145754.jpg?caw=800)
駅近くまで戻ったので海岸沿いにあるという「如意の渡」を訪ねて行く。(写真)
源義経の生涯を描いた「義経記」に印されている場所である。
義経主従が奥州落ちの途中、ここでの乗船の際に怪しまれ、弁慶が義経を扇で打ちのめしたという伝説の地である。
「勧進帳」の安宅の関の舞台は、後の江戸時代にこの伝説をモデルにして造られたもの。
何とここが本家だったのだ。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190809/12/tenpleandcinema/d1/d8/j/o0389029214527145759.jpg?caw=800)
さらに駅周辺をブラブラと歩き、棚田家住宅に行く(写真)。
明治から昭和初期に栄えた回船問屋。
数寄屋造りの建物で、現在は拝観をしていない。
かっての伏木の湊の繁栄ぶりの一端が覗える。
国登録有形文化財に指定されている。