閑話休題
今日は朝から大腸の内視鏡検査に出かけ16時過ぎにようやく帰ってきた。
早いもので大腸ガンの手術をして、一年が経過した。
お陰さまで適切な手術と、本人の節制(?)により、先生もびっくりする位に順調である。
今日の検査も無事終わり、異常はなく今回は無罪放免された。
健康に感謝しながら、ますます寺社廻りに精を出すことにしょう。

続いてタクシーは丸岡城に到着。
運転手お薦めの手打ち蕎麦の美味しい店に行くには、ここからふた山越えてゆかねばならないとのことで、仕方なくお城そばのレストランにて、蕎麦定食で腹ごしらえ。


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丸岡城は柴田勝家の甥である勝豊が1576年に築城した。
現存する天主閣(写真)の中で最も古く、重文指定されている。
屋根は二重で内部は三階になっている。

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変わっているのは屋根がすべて石瓦で葺かれており、全国でもここだけである。
この石はこの地特有の笏谷石であり、瀧谷寺の参道ほか、あちこちで見かけた。
写真は石瓦の屋根
また「一筆啓上」碑が立っていた。
丸岡城の六代目城主本多成重(幼名仙千代)の父重次が妻にあてた手紙は「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」であり、日本で一番短い手紙として名高い。

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続いては朝倉氏が約100年にわたって越前に花開かせた中世都市の面影を求めて、一乗谷朝倉氏遺跡を訪ねた。
近年、発掘調査が進み、一部復元整備されている庭園跡を一度見てみたいものだと思っていた。
一乗谷といっても結構広くまた長いのにびっくり。
写真は入り口付近の谷が最も狭い下城戸で、土塁が築かれ城門とされた跡。

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続いては町並みが復元された建物を見学。
ここら辺りは重臣の屋敷が山際にならんで建ち、道路を挟んで右側には武家屋敷や町屋が形成されていたという(写真)。
なにしろ最盛期にはこの一乗谷の城下町に一万人が暮らしていたという。

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さらに道を少し戻り、遺跡の中心にある朝倉館跡を訪ねる。
当遺跡のシンボル的存在の唐門がポツンと建っている。
1598年に秀吉が寄進したという説もある。
ただ遺跡の中で、建物はこの唐門だけであり、何となく違和感がある。

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朝倉館は第五代朝倉義景が住んだ館跡で6500㎡の広さ。
三方は土塁と壕で囲まれて、常御殿、主殿、会所、茶室、花壇、台所、厩、蔵などが整然と配置されており、石組の館跡庭園もあっことがうかがえる。
写真は高台から朝倉館跡全体を望む。

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さらに館跡の右奥の石段を登ると湯殿跡庭園(写真)が整備されていた。
汀線は複雑で、4mの巨岩を中心にして山石を組み合わせた回遊式池泉庭園。

朝倉氏の栄華の跡にゆっくり浸る間もなく、日暮れが迫ってきたので最後の永平寺を目指してスタート。