過日3月19日に、堺市の寺社めぐりをしたが、南宗寺を拝観した際、なぜか伝説の徳川家康の墓があったことを紹介した。ブログでは近畿編3月29日を参照。
どうして堺の寺院の中に、それも無銘の小さな碑が隠されていたのか不思議に思っていた。

私はここ二年位前から、寝る前に山本周五郎の小説を読むことを日課としてきた。
新潮文庫から55冊の文庫が出版されており、長編、中篇、エッセイなど様々である。
このほどようやく読破し終えたが、つい最近「正雪記」を読んだ。

その下巻第二部、八―六にて、堺の南宗寺の家康の墓についての紹介と、氏の推測が書かれていた。その部分を再録すると
「股、南宗寺という寺の境内に、なんの碑名もない石塔があり、無銘の塔と呼ばれているが、これは徳川家康が茶臼山の合戦に敗れ、後藤又兵衛(基次)の槍にかかったうえ、ここまで逃げてきて死に、ひそかに埋葬したのを、のち久能山に移葬したのだ、と伝えられているそうで、土着市民の家康に対する反感のあらわれが、そんな伝説を生みだしたのであろう」と書かれている。

なるほど、そういう解釈をすれば、なぜ南宗寺に、無銘の碑で、隠されたままでそのように伝わったのかということが、すべて理解できた。
一つの遺跡、石碑、石仏を見ても、その背景をいろいろ考えてみると、また違った見方ができるのだと感じた次第である。

それにしてもこういう形で新たな発見をしたことは、極めて僥倖であるが、正直言って嬉しかった。
最後にその南宗寺の伝説の家康の墓の写真を再載した。

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