面白解釈編第3弾はドナウディのAmorosi miei giorniを取り上げてみます。
ドナウディは別の投稿でも触れたように独特の音楽記号の使い方や表現があり、ともするとロマンティックになりすぎる感がありますが、色々な仕掛けをしている部分もあり、まだまだ研究の余地があるのかな、と思います。
今日は言葉遊び的な部分が見える作品に着目していきます。
Amorosi miei giorni
Amorosi miei giorni,
chi vi potrà mai più scordar,
or che di tutti i beni adorni,
date pace al mio core
e profumo ai pensieri?
Poter così,finchè la vita avanza,
non temer più gli affanni
d'una vita d'inganni,
sol con questa speranza:
che un suo sguardo sia
tutto il mio splendor
e un suo sorriso sia
tutto il mio tesoro!
Chi di me più beato,
se accanto a sè così non ha
un dolce e caro oggetto amato,
sì che ancor non può dire
di saper cos'è amore?
Ah,ch'io così,finchè la vita avanza,
più non tema gli affanni
d'una vita d'inganni,
sol con questa speranza:
che un suo sguardo
sia tutto il mio splendor
e un suo sorriso sia
tutto il mio tesoro!
日本語訳
愛らしい私の日々よ
誰がお前たちを忘れるだろう
今や美しく彩られ、
私の思いに安らぎを与え
香り立たせているものを?
そうできるなら、この命尽きるまで
もう苦しみを恐れてはいけない
この偽りの人生の、
たった一つの希望を抱いて:
その微笑みはきっと
私の全ての輝き
そしてその微笑みはきっと
私の全ての宝だろう
誰が私より幸せだろうか
もし隣にいないのなら
優しく、そして愛すべき愛しい存在が
このように言えないはずだ
何が愛なのかと
ああ、私もこのように、この命ある限り
苦しみを恐れる事が無いように
この偽りの人生に
たった一つの希望を抱いて:
その微笑みはきっと
私の全ての輝き
そしてその微笑みはきっと
私の全ての宝だろう
ドナウディらしいとても美しいメロディにこんなにも美しい歌詞がついていて初めて訳した時にとても感動したのを覚えています。さて、このテキストには日本語になりにくい箇所があります。しかも1語変えただけで全く違う意味に変わってしまうという、どんでん返しが仕掛けられています。
一見、サビの部分はほぼ同じ歌詞で同じメロディなので訳され方も同じ場合が多いのですが、文法的にみた場合、一箇所不思議な部分があります。サビ部分の1番は「non temer più gli affanni」2番は「più non tema gli affanni」ですが、2番の「tema」は接続法なので主観を表したり、願望、希望、まだ実際には起こっているかどうかわからないことを表す言い方です。そうなると1番のように「恐れてはいけない」という決意ができない女々しい自分を嘆く歌に変わっている点が興味深いです。
有節歌曲は概して「本音は2番以降」という法則があります。いろいろ欠けている言葉があるので確信を持っての言い方は難しいかも知れませんが、あえて不確実にすることで歌手も聴き手も想像を掻き立てられるような工夫がされています。
Poter così,finchè la vita avanza,
non temer più gli affanni
d'una vita d'inganni,
sol con questa speranza:
(愛の日々を忘れずにいる自分は)このように、命ある限り、苦しみを恐れることなくたった一つの希望を抱いて前に進むのだ。
強い意志と覚悟が見て取れます。端的に言ってカッコいい。
一方で2番
Ah,ch'io così,finchè la vita avanza,
più non tema gli affanni
d'una vita d'inganni,
sol con questa speranza:
ああ、私もこのように、この命ある限り、この偽りの人生を苦しみを恐れる事がないようにこの偽りの人生をたった一つの希望を抱いて前に進めたらいいなぁ。
なぜそういう訳になるかというと、冒頭の「Ah ch’io così」はニュアンスが願望で「tema」の前にくる主節の動詞が省略されているためで(おそらくspero)、そうなると1番のような言い切りの感じがありません。決意というより願望に近い表現となり、実際には「そうできていない自分がいてそれを嘆いている、ああなりたいなぁ」という願望を歌っていることになります。それを2番の1語だけ取り替えて全体のニュアンスも変えてしまうなんてなかなかドナウディは策士だなぁ、と思ってしまいます。
さらに本音の部分にこの意味を置くということは穿った見方をすれば1番の歌い出しの
「Amorosi miei giorni、chi vi potrà mai più scordar,or che di tutti i beni adorni,
date pace al mio core e profumo ai pensieri?」
は
「誰が忘れられようか?でも私はそうなれずに忘れてやりたいほど苦しんでいる」
というふうにも感じられるようになってきます。それくらいこの「tema」の一言は大きな一言になっています。
ドナウディの歌曲は「古典の様式による近代歌曲」と言われています。そのため、時々、韻を踏むために言葉の入れ替えが激しく意味的にかえって難解になってしまうこともありますが、ドラマチックな表現がある曲(例:Quando ti rivedrò)や有節歌曲の中に仕掛けがあるものや、独特な表情記号など、楽譜にある指示をもう一度自分の中で再解釈して表現しても良い部分があるため、まだまだ掘り下げて研究できる部分があると感じています。

