ピエロ ~ 思い出話 | いつも 0-40   

いつも 0-40   

私の名前はMAMA DAISUKI
完全無欠の落ちこぼれテニスプレーヤー
テニスを始めて5年目いまだ連敗記録更新中
やっすい時給で頑張ってるのはテニスのため
練習していつかあこがれの草トーに挑戦
いつかきっとゲットできるはずの1勝めざして今日もコートへ

子供たちの父親を失ったのは
長男が3歳長女が2歳の時

親族は遠い広島
明日からひとりでこの子たちが
大人にるまで育てていけるのか
悲しむ時間も寂しいと思う時間もなく
ふたりを食べさせることに時間を費やした

「心優しい神様が私が寂しかったり
 悲しかったりしないようにこの子達を
 与えてくださった」そう思って
 自分を励ました

子供達が小学校の2年生と3年生の時
お金もなくて家の中に食べるものも
なくなって子供たちに宣言した

「ゲームオーバーだね。
 もうこれ以上は無理だから」

当時小学3年生の長男がアイディアを
出してくれた「先生に会いに行こう」

長男が「先生」と呼んだのは区役所の
児童福祉課で何度か面談した相談員さん
定年でリタイアした元教師のセカンドキャリア
豊かな経験に支えられてか穏やかで優しかった

3人で尋ねた福祉課では「先生」に会うことは
できなったけれど私たちを案じた福祉課の職員さんが
話を聞いてくれその日のうちに生活保護受給の
手続きを進めてくれた

「今月の1日に遡って保護費が出るようにしますから」
そう言ってまだ20代くらいの若い男性の職員さんが
乾パンと氷砂糖の入った缶を渡してくれた
ご飯を食べていなかった子供たちは固い茶色の
小さなパンを喜んで食べた

心配した別の福祉課職員さんが言ってくれた
「おかあさんそんなに無理しなくていいんです。
 子供は預けてもいいんですよ。お母さんが
 休まるまで福祉がちゃんと面倒を見ますから。」
でも…子供の手を離すことができなかった

いま思えば福祉はこの時私には子育ては困難
なのではないかと判断していたのかも知れない

子供たちの父親が残してくれたマンションには
住むことができなくなり区の福祉課の尽力で
二人を連れて2DKのアパートに引っ越した

それから4カ月生活保護で暮らしながら
生きる道を模索した

古本屋さんで200円のバージョン遅れの
WordとExcelのテキストを買い
アルバイト先の会社に頼んで昼休みと終業後の
1時間づつパソコンを貸してもらい独学して資格を得た

派遣会社に登録して派遣先が決まり
生活保護から抜け出すことができた

働きながら少しずつ勉強して講師資格を得た頃
周りには色があるのに気が付いた
春にはピンクの桜
夏の海は青くて
秋は黄色い銀杏
冬に降る雪はきれいな白
時給も上がって生活が少しはできるようになって
周りにあるものが見えるようになったようだった

去年素敵な人に出会って恋することを思い出した
そして長く記憶の中で埋もれていた子供たちの
父親の顔を時々思い出すようになった

私より10歳若かった彼は私が疲れていたり
辛そうにしていると慰めたり励ましたりではなく
理由は何も聞かず笑わせようと奮闘した

新しい恋をすることを
そして「もう一度幸せな家庭を持てるかも」という
希望を持つことを彼は許してくれるだろうか

生成AIによるイラスト

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