光ある世界 ~ 町田米軍機墜落事故 | いつも 0-40   

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私の名前はMAMA DAISUKI
完全無欠の落ちこぼれテニスプレーヤー
テニスを始めて5年目いまだ連敗記録更新中
やっすい時給で頑張ってるのはテニスのため
練習していつかあこがれの草トーに挑戦
いつかきっとゲットできるはずの1勝めざして今日もコートへ

※このブログは2013年4月のブログ"消えた街角  町田米軍機墜落事故"に加筆したものです

町田市中心部の民家に
アメリカ軍の戦闘機が
墜落したのは1964年 σ( ̄、 ̄=)
和暦だと昭和39年だねd( ̄  ̄)

4月5日午後4時30分*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
嘉手納基地から飛び立った米軍機が
厚木基地へ向かう途中故障した (-。-;)
そのまま民家に墜落 衝撃で炎上した
商店街の一角が一瞬のうちに消えた(_ _。)

市民4名が死亡
26歳のお母さんと9ヶ月の男の子
74歳のおばあちゃんが倒壊した
民家に押しつぶされて圧死
自転車で通りかかった47歳の男性が
飛行機の破片の直撃を受けて即死

他にも重傷者9名 軽傷者23名

住宅7棟が全壊
20棟が被害を受けたφ(.. )

パイロットは脱出して無事だった

墜落したのはF8U-2戦闘機 d( ̄  ̄)
90度とまでは行かないがそれに近い
角度で墜落し空中分解せず地面に直撃
燃料をあまり積んでいなかったのが
せめてもの救いだった


もしも角度がなく滑走と云う事態に
なったり燃料を沢山積んでいたら
もっと大惨事になっていただろう

パイロットは1名で階級は海軍大尉
パラシュートを使い高度2700で脱出
墜落現場の東側1~2㎞位の団地に着地
被害家屋が燃え上がる頃には厚木基地の
病院に収容されて治療を受けていた
大尉の負傷はかすり傷程度だった

米軍の指導要綱に記されている筈の
民家を避けてからの脱出と云う指示を
自らの安全を優先した大尉は守らなかった

墜落現場には擂鉢状に直径10mを超す
穴があき倒壊家屋の残骸で埋まった


妻と子を奪われた男性の記録がある
     *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
     午後4時28分目の前の畳数枚が
     ふわりと宙に浮いたかと思うと
     あたりは一変して暗闇にななった

     背中を圧迫されうつ伏せになった
     なんだ地震かどうしたんだと
     懸命に叫び必死に踠いた

     首をなんとか上に曲げてみると
     微かに陽が洩れているのが目に
     入ったここはどこだ力を込めて
     叫んでみたが返事はない

     そこは居間の真下に掘られていた
     防空壕の跡であった広さ畳一枚半
     深さ2mの穴へ叩きつけられるよう
     にして放り込まれていたのだった
     このことが奇跡的に命を救うこと
     になった

     防空壕の中でもがきながら温かな
     人の手に触れそれが妻だと悟った

     大声で返事を求めたが反応は
     なかった
     *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

この男性は事故発生から1時間半後
救出されたが妻と生後9ヶ月の長男は
倒壊物の直撃により即死だった

裏の空き地で遊んでいた
3歳の長女は無事だった
男性の経営する店の従業員
2人は深い熱傷を負った

隣接する商店で74歳の老女が
倒壊した家屋により圧死

通りかかった男性が破片の
直撃を受けて死亡した

救いは 駆け付けた周辺住民と
消防の救助作業が円滑だったこと
町田だけでなく八王子からも
消防団が駆けつけ総勢400名以上が
救助と消火に尽力した

犠牲者の遺体は勝楽寺に安置され
合同で通夜が行われた

岩国基地から海兵隊基地司令官が参列
厚木基地から海軍航空司令官が
駈けつけて陳謝 異例の対応だった

機体は地中にめり込んで大破
直径10数mの穴があいた
現場には今もエンジン部分が
埋まったままになっている
いつも「0-40」

現場はコインパーキングとして使用され
慰霊碑は建てられていない(´・ω・`)



現在市民の有志によるブロンズ像建立が
進められているが町田市は像の受け取りを
拒否しているらしく設置の見通しは立っていない



     たった9ヶ月で命を奪われた男の子
     26歳で人生を閉じたお母さん
     家路を急いていた男性
     温厚で優しかった老女

     犠牲者の魂が *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
     天国で安らかにあるように祈って

町田市Webサイト




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