町田市中心部の民家に
アメリカ軍の戦闘機が
墜落したのは1964年 σ( ̄、 ̄=)
和暦だと昭和39年だねd( ̄  ̄)
4月5日午後4時30分*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
嘉手納基地から飛び立った米軍機が
厚木基地へ向かう途中故障した (-。-;)
そのまま民家に墜落 衝撃で炎上した
商店街の一角が一瞬のうちに消えた(_ _。)
市民4名が死亡
26歳のお母さんと9ヶ月の男の子
74歳のおばあちゃんが倒壊した
民家に押しつぶされて圧死
自転車で通りかかった47歳の男性が
飛行機の破片の直撃を受けて即死
他にも重傷者9名 軽傷者23名
住宅7棟が全壊
20棟が被害を受けたφ(.. )
パイロットは脱出して無事だった
墜落したのはF8U-2戦闘機 d( ̄  ̄)
90度とまでは行かないがそれに近い
角度で墜落し空中分解せず地面に直撃
燃料をあまり積んでいなかったのが
せめてもの救いだった
もしも角度がなく滑走と云う事態に
なったり燃料を沢山積んでいたら
もっと大惨事になっていただろう
パイロットは1名で階級は海軍大尉
パラシュートを使い高度2700で脱出
墜落現場の東側1~2㎞位の団地に着地
被害家屋が燃え上がる頃には厚木基地の
病院に収容されて治療を受けていた
大尉の負傷はかすり傷程度だった
米軍の指導要綱に記されている筈の
民家を避けてからの脱出と云う指示を
自らの安全を優先した大尉は守らなかった
墜落現場には擂鉢状に直径10mを超す
穴があき倒壊家屋の残骸で埋まった
妻と子を奪われた男性の記録がある
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午後4時28分目の前の畳数枚が
ふわりと宙に浮いたかと思うと
あたりは一変して暗闇にななった
背中を圧迫されうつ伏せになった
なんだ地震かどうしたんだと
懸命に叫び必死に踠いた
首をなんとか上に曲げてみると
微かに陽が洩れているのが目に
入ったここはどこだ力を込めて
叫んでみたが返事はない
そこは居間の真下に掘られていた
防空壕の跡であった広さ畳一枚半
深さ2mの穴へ叩きつけられるよう
にして放り込まれていたのだった
このことが奇跡的に命を救うこと
になった
防空壕の中でもがきながら温かな
人の手に触れそれが妻だと悟った
大声で返事を求めたが反応は
なかった
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この男性は事故発生から1時間半後
救出されたが妻と生後9ヶ月の長男は
倒壊物の直撃により即死だった
裏の空き地で遊んでいた
3歳の長女は無事だった
男性の経営する店の従業員
2人は深い熱傷を負った
隣接する商店で74歳の老女が
倒壊した家屋により圧死
通りかかった男性が破片の
直撃を受けて死亡した
救いは 駆け付けた周辺住民と
消防の救助作業が円滑だったこと
町田だけでなく八王子からも
消防団が駆けつけ総勢400名以上が
救助と消火に尽力した
犠牲者の遺体は勝楽寺に安置され
合同で通夜が行われた
岩国基地から海兵隊基地司令官が参列
厚木基地から海軍航空司令官が
駈けつけて陳謝 異例の対応だった
機体は地中にめり込んで大破
直径10数mの穴があいた
現場には今もエンジン部分が
埋まったままになっている
現場はコインパーキングとして使用され
慰霊碑は建てられていない(´・ω・`)
現在市民の有志によるブロンズ像建立が
進められているが町田市は像の受け取りを
拒否しているらしく設置の見通しは立っていない
たった9ヶ月で命を奪われた男の子
26歳で人生を閉じたお母さん
家路を急いていた男性
温厚で優しかった老女
犠牲者の魂が *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
天国で安らかにあるように祈って