スコーク 77 ~ 米軍幻の救援 日本航空123便墜落事故 | いつも 0-40   

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私の名前はMAMA DAISUKI
完全無欠の落ちこぼれテニスプレーヤー
テニスを始めて5年目いまだ連敗記録更新中
やっすい時給で頑張ってるのはテニスのため
練習していつかあこがれの草トーに挑戦
いつかきっとゲットできるはずの1勝めざして今日もコートへ

      このブログは2014年8月の記事を再アップしたものです

      1985年 JAL123便は政治的証拠隠滅の為自衛隊機に
      よって御巣鷹に誘導され墜落を余儀なくされました
      それでも操縦クルーは高い技術によって多くの命を
      救ったと思われます けれど助かった命はクルーも
      含めて自衛隊の手によって炎の中に消えてゆきました

      いつかこの事件の真相が公表される日が来る事を願って
      この記事をもう一度掲載します

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

日航ジャンボ機事故がテレビで
取り上げられた8月12日
遠い記憶の中にジャンボ機を探す
報道番組を夜通し見ていた事を思い出した

覚えているのは
機体がレーダーから消えたと云う報道と
墜落地点の誤報が繰り返されたこと

日本航空123便墜落事故が起こったのは
1985年 和暦だと昭和60年d( ̄  ̄)
8月12日 月曜日 18時56分

羽田発伊丹行123便ボーイング747SR-46が
群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根に墜落
乗員乗客524名のうち死亡者520名生存者4名

ボーイング社の修理が不備だったことによる
圧力隔壁の破損が事故原因と公表されて調査は終了
だけど*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
航空関係者や遺族からは再調査を求める声が上がっている

異常がおきたのは離陸から12分後18時24分
相模湾上空を上昇中 衝撃音と共に123便の
垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され
その際油圧操縦システムの4系統全てに損傷が及んだ
昇降舵や補助翼が操作不可能になってしまう

機体は迷走しながら上昇と下降を繰り返し
ダッチロールと呼ばれる状態のまま
クルーの懸命の努力で飛行を続ける

機体は羽田方面に向かうものの埼玉県上空で
左へ旋回群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始める
123便は衝撃音発生から墜落までの間
破片を落としながら飛行していたようで
相模湾と墜落現場だけではなく東京都西多摩郡
でも機体の破片が発見され123便が垂直尾翼の
大部分を失った状態で飛行していたことが
後に解明されたφ(.. )

乗客は最期を覚悟し不安定な機体の中で懸命に
家族への遺書を書き残した (´・ω・`)

遺書は後に事故現場から発見され
犠牲者の悲痛な思いを伝えている(_ _。)

18時24分の異常発生から30分以上に
及ぶ飛行を続けることができたため
遺書を書く時間があったまれなケース*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

乗務員の生存者は"客室乗務員は
終始乗客のサポートをしていた"と証言
機体後部に取り付けられていたコック
ピットボイスレコーダーには幼児連れの
親に子供の抱き方を指示する放送
身の回りを確認するよう求める放送が
墜落直前まで記録され 異常発生後の
客室内を撮影したカメラが墜落現場から
見つかりマスコミによって公開されている


ボイスレコーダーの解析により解明された
異常発生から墜落までの経過は以下

      18時24分
      オレンジ色の自衛隊標的機が
      衝撃音と共に123便の尾翼部に激突


      JAL123便が"スコーク77"
      緊急救難無線信号を発信

      信号は所沢の東京航空交通管制部が受信
      直後に高濱機長が無線で管制部に対して
      "緊急事態発生のため羽田へ戻りたい"と
      告げ管制部はそれを了承


      JAL123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求
      管制部は右左どちらへの旋回をするか
      尋ねると機長は右旋回を希望
      羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った

      スコーク77は民間機が何かに
      要撃の対象とされた場合の緊急コール
      発信した民間航空機は自衛隊機の指示
      誘導に従うよう定められている
     
      スクランブルをかけた自衛隊機が
      使用する言葉は4つ

      ★当方に従え
      ★着陸のため降下せよ
      ★この飛行場に着陸せよ
      ★そのまま飛行してよい

      要撃された民間機が使用できる言葉は6つ

      ☆了解、指示に従う
      ☆指示に従うことはできない
      ☆指示を繰り返してください
      ☆自機の現在位置がわからない
      ☆着陸したい
      ☆降下したい

      123便は衝突音のあと7秒後にスコーク77の
      識別コードを送信
している

      東京管制が123便の緊急事態宣言を
      受けたのは衝撃音の2分29秒後
      東京管制の二次レーダーに123便が
      緊急事態であることを示す信号がついた

      東京管制は緊急事態の内容を訊ねるが
      123便は応答しなかった
      スコーク77の発信でルール上自衛隊機の
      指揮下に入ってしまったためクルーは
      管制官に答えることができなかった


18時28分
123便は"操縦不能"を管制塔に連絡

18時31分
管制官は羽田より近い名古屋空港に緊急
着陸を提案するが123便は羽田行きを希望

18時33分頃
JALが社内無線で123便に交信を試みる

18時40分
管制官の呼びかけに対する123便からの応答が消えた

18時45分
無線のやり取りを傍受していた在日米軍
横田基地が123便の支援に乗り出す


18時48分
無言で123便から機長の呼吸音が記録されている

18時49分
JALが社内専用無線で123便との交信を試みるが応答はなかった

18時53分
管制官の呼びかけに123便が答える"アンコントロール"
米軍横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると伝えた

18時54分
JALが123便との交信を試みるが応答はなかった
123便から管制塔へ現在位置を確認する交信があった
管制塔が羽田から55マイル北西熊谷から25マイル西と告げた

18時55分
管制塔が羽田と横田が緊急着陸準備を行い
いつでも最優先で着陸できる事を知らせ
航空機関士が"はい了解しました"と返答する


これが123便からの最後の交信になった(_ _。)

18時56分
横田基地の米軍が123便に対して呼び出しを行ったが応答はない
同時に123便機影がレーダーから消えた

18時56分14秒
対地接近警報装置が作動

18時56分23秒
右主翼と機体後部が樹木と接触

18時56分26秒
右主翼が地面に激突同時に機体の分解が始まった

18時56分28秒
機体後部が分離 機体は機首を下げながら右側に回転してゆく

18時56分30秒
高天原山の斜面に衝突 墜落した

墜落時の衝撃で機体前部から
主翼付近は大破両主翼も
離断してそれぞれ炎上したが
機体とコックピットは
墜落直後には火災はなかった


クルーの高い技術と一人でも
多くの命を救おうと最後まで
操縦を試みた結果 事故直後機体には
多くの生存者がいた
と推察されている



分離した客室後部と尾翼
山の稜線を超えて斜面を滑落
尾根への激突を免れて斜面に
平行に近い角度で着地し
樹木をなぎ倒しながら減速
このため衝撃が小さく火災も
発生しなかった


      米軍*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
      1985年8月12日事故当日
      JAL123便と管制官の無線のやり取りを傍受していた
      在日米軍横田基地がJAL123便の支援に乗り出す

      JAL123便からの連絡が途絶えたため
      米軍横田基地はJAL123便の探索を開始

      午後7時30分
      JAL123便の墜落現場を発見
      夕暮れだったが、地面はまだ見える明るさ
      燻る機体も炎も確認している

      米軍機C-130がJAL123便の残骸
      上空で横田基地からの位置を測定し
      20分後には正確な墜落場所の位置を
      横田基地に報告した

      米軍はこの時点で日本側に正確な
      事故現場の位置を知らせている

      午後8時30分
      米軍は陸軍キャンプ座間から
      救難ヘリUH-1を発進させる
      救難ヘリUH-1は事故現場に飛来し
      乗員2人を下ろそうとして
      木の梢から15メートルまで降下

      だけど(-。-;)
      午後9時20分
      横田基地から帰還命令が入る
      生存者救助に入りたいと答えた米兵に
      横田基地の司令官は"日本側の救助隊が
      向かっている"と帰還を命じた

      地上に降りかけていたヘリの乗員は
      再びヘリに戻り救難ヘリUH-1は横田基地に帰還

      米軍ヘリの飛来は生還した搭乗員が証言している

      日本側の都合による
      米軍救援活動中止要請(゚_゚i)

墜落現場の位置情報を米軍から
受けている筈の自衛隊は
次の日の朝まで墜落場所を
特定できていないと公表

米軍機C-130の搭乗員は
マスコミの取材にこう答えている

      "あの飛行機事故のことは10年経った今も
       脳裏に焼き付いて離れない JAL123便が
       管制塔に緊急を告げたときたまたま近くを
       飛んでいた 現場はすぐに確認できた
       墜落の2時間後にはアメリカ軍の救助ヘリが
       現場に着いた あの時ストップがかからなければ
       もっとたくさんの人が助かっていたに違いない
       日本の救援隊が現場に着いたのはその後
       14 時間も経ってからというではないか"

防衛庁は否定の見解を示す

      "米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない
      夜間でしかも急斜面への降下は自殺行為である"

これに対して米陸軍救難ヘリの搭乗員は反論

      "陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん1980年代から
       夜間暗視装置を標準装備 夜間でも急斜面でも
       訓練された救急隊員であれば降下できる"

墜落から14時間が過ぎた午前8時30分
陸上自衛隊第一空挺団の隊員が現場に降下
やっと救難活動が開始されたけれど
自衛隊幹部は早々に全員即死を宣言したΣ(・ω・ノ)ノ!

だけど長野県警レスキュー隊と報道関係者
消防団員らが独自に生存者を捜索
女性4人を発見し救出
した ヾ( ̄o ̄;)

コントロールを失った機体を必死に操縦し
飛行し続けたJALの精鋭クルーが救った命は
もっと沢山あったのではないか
何故事故は起きたのか

事故後放送されたニュース映像には
日航側の事故調査員がオレンジ色の金属片を
回収しようとして証拠隠滅の容疑で自衛官に
連行される姿が映っている

オレンジの金属片は123便の尾翼部に
激突して破損した自衛隊標的機の残骸
日航側に回収されては困る
自衛官は焦ったことだろう

機体発見当日 夜明け前に長野県からオフロード
バイクと徒歩で男性2人が墜落現場に駆けつけた
そこで助けを呼んでいる50人くらいの生存者と
既に到着している自衛隊員を目撃したと云う
記録が残されている

救援部隊到着は公式では午前8時30分
目撃された時間JAL123便はまだ
"行方不明"だった筈の時間

沢山の疑問を残したまま流れた29年の時*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

真実が解明されても29年の
時間が戻るわけではない

けれど *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
真実の解明は犠牲者の為にも残された家族の為にも
必要なのではないかとMAMA DAISUKIは思っている

犠牲者の魂が今は天国で
穏やかにあることを信じて*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

【参考資料】
JAL123便墜落事故
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/a1a847e042b50e4899e8cc57750e87d1


JAL123便日航機墜落事故の真相
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm


JAL123便墜落事故の真相
http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4121599.html


元日航客室乗務員:青山透子氏ブログ
http://tenku123.hateblo.jp/entry/2014/03/06/182129


生存者が自衛隊員により死体置場に運ばれていく
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak43/msg/329.html


日航機123便墜落24年目の追悼
http://www.geocities.jp/gunmakaze/column/19nikkoukijiko.html


日本の黒い霧
http://blog.goo.ne.jp/adoi


JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(4)
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a


日航機123便撃墜事件を追って
http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/ee5946dce9aaddfb1999da6b5d5f3501


慰霊の園(日航機墜落事故慰霊碑)
http://blogs.yahoo.co.jp/ruinsrider/23839602.html





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