警官だった父が人を死なせて逮捕された、という知らせは、去年のゴールデンウィークの真っ最中にもたらされた。
 率直に言って、アタシはその日のことをよく覚えていない。覚えているのは、激昂した祖父と魂の抜けたような表情の祖母の、噛み合わないケンカの様子だけだ。
 幼い頃に母を亡くしたアタシは、連休があると祖父母の家に預けられていた。父とアタシは二人暮らしで、父の両親は早くに亡くなっていたので(彼らは当然、父の家族構成を把握していた)警察の人たちは自宅には行かず、まっすぐ祖父母のところにやってきたのだ。そういう意味では、アタシがその場にいたことは、彼らにとっては想定外だっただろう。
 父は福岡県警の薬物対策課の刑事だった。父の属していた捜査班は親不孝通りのクラブ(踊るほうのヤツだ)で捌かれていた合成麻薬の捜査をしていて、父ともう一人の若い刑事は、二人で張り込みをしていた。密売グループのリーダー格の少年(アタシはこの言い方が気に入らない。売人で十分だ)が手に入ったばかりの麻薬をクラブに持ってくるという密告があって、父たちはその現場に踏み込んで現行犯逮捕するつもりだったらしい。
 売人は情報が洩れていることに気付かず、まんまとクラブに現れた。父は売人に職務質問をかけ、同時に若い刑事が彼の腕を捻りあげた。麻薬のパッケージを取り上げ、売人を連行して、父たちのその日の仕事は終わるはずだったのだ。
 でも、そうはならなかった。一瞬の隙をついて若い刑事のみぞおちに一撃を入れた売人は、そのまま逃走した。父は売人を追った。
 それから、二人の間でなにがあったのかは、実はよく分かっていない。
 若い刑事が長浜公園で二人に追いついたときには、父は肩で荒い息をしていて、売人はその足元でぐったりと伸びていた。父の拳は売人の鼻血と裂けた傷口から流れる血で染まっていて、通りかかった通行人の通報で駆けつけた長浜交番の制服警官が、父を激しい口調で詰問していたそうだ。
 売人は救急車で病院に運ばれたが、倒れたときの打ちどころが悪くて、明け方を待たずに息を引き取った。追い討ちをかけるように(と言っていいのかどうか分からないのだけど)死んだ売人は麻薬を持っていなかった。密告に気付いた売人がとっさに隠したのか、最初から密告自体が罠だったのかは分からない。ただ、状況が警察にとって非常に厳しいものになったことは間違いなかった。父は傷害致死の容疑で緊急逮捕された。
 暴力警官に対する世論の追求は“激烈”の一語に尽きた。全国ニュースでも取り上げられ、アタシは凄まじいイジメの真っ只中に放り出された。クラスメイトは一斉に背を向け、通っていた空手の道場からは丁重に(でもキッパリと)出入り禁止を宣告された。
 裁判では父は大筋で起訴事実を認めて謝罪の意を示したけれど、何故、売人を殴ったかについては「カッとなって覚えていない」の一点張りで、動機は明かされることはなかった。警察内部ではせめて業務上過失致死に切り替えるように検察に働きかける動きはあったようだけど、父はそのまま傷害致死罪で懲役五年の実刑判決を受けた。父は控訴せず、北陸のほうの刑務所に収監された。
 アタシはそのまま祖父母に引き取られ、祖母の母校に編入することになった。アタシはすっかり荒れて、一年生の半分近くは学校にも行かなかったけど、ふとしたことから学校に通うようになった。祖母がOG会に多大な影響力をもっていたこともあって、膨大な追試と補習と引き換えに進級を許された。
 アタシが学校に戻るきっかけになったのは、由真だった。


 九月になっても自主的な夏休みを続けていたアタシは、中洲のど真ん中にあるゲームセンターで由真と出会った(彼女が何故、そこにいたかは未だに謎なのだけれど)
 お人形さんみたいだな、というのが最初の印象で、アタシは自分のボキャブラリーのなさに呆れたものだ。実はアタシには、彼女に見覚えがあった。というか、同級生の中で彼女のことを知らない者はいなかったのだ。祖母の頃とは違うと言っても未だに“お嬢様学校”と呼ばれるウチの高校で、由真は真性のお嬢様だ。家は早良区のほうにある総合病院を経営していて、分院が市内を始め、福岡県内にいくつもあると聞いていた。
 ゲームセンターにいるのに遊ぶふうでもなく、ただ興味深げにキョロキョロと店内を眺めて歩いている様は、買い物をする親から「見てるだけよ」と言われて玩具売り場で待っている子供を思わせた。身長は一六〇センチ弱(あたしより十五センチほど低い)で、体重はあっても四〇キロちょっと(あたしより十五キロほど軽い)だろうか。緩いウェーブのかかった長い髪と、控えめなフリルの付いたサックスブルーのワンピースは、猥雑で騒々しい夜の街では明らかに異質だった。
 もっとも、そんなところにそんな少女がいれば、ナンパ待ちの女の子をモノにするのが生きがいのバカな男が言い寄ってくるのは当然のなりゆきだった。男は由真に声をかけ、馴れ馴れしく肩を抱かんばかりに彼女に寄り添った。彼女は女のアタシでさえドキリとするような艶然とした微笑を浮かべた。
 次の瞬間、パァンという男の頬を張る小気味のいい音が鳴り響いた。由真はそのまま、その場を立ち去ろうとした。が、男のほうは(当然だけれど)収まらなかった。屈辱で顔を紅潮させて、由真の細い腕を捻りあげた。由真は悲鳴を上げた。
 周囲は事の成り行きを遠巻きに見ていた。盛り場の痴話喧嘩に口を差し挟むほど、中洲の住人は暇じゃないからだ。
 アタシは「やれやれ」と思いながら、やりかけのゲームの台から立ち上がった。バンダナを外して右拳に巻きつけた。男の死角になる方から近づく。
「アンタ、何してんの?」
 男が振り返ってアタシを見た。その瞬間、アタシは男の顔面に渾身の正拳突きを叩き込んだ。男は無様にひっくり返り、派手な音を立てて床に転がった。
 空手の師範代の言葉がアタシの脳裏を駆け巡った。男と女が闘う場合、体格や力、スタミナなど、全ての面で女は不利だ。ただ一つ、女にとって有利なのは、男は大抵の場合、女の力を過小評価、つまり油断している。だから、余計な様子見などせずに、第一撃に全力を込めろ――。
 由真は何が起こったのか分からないように目を瞬かせていた。
「逃げるよ!!」
 アタシは由真の手を取った。しかし由真は男に腕を捻られたときに落としたバッグを拾おうとして、手間取った。残念ながらアタシの正拳には一撃でノックアウトできるほどの威力はなく、男はノロノロと立ち上がった。
 ポケットから出した手に、鈍く光るものを認めた瞬間、アタシの体は動いていた。左の下段前蹴りで男の出足を止めた次の刹那、アタシの得意技、軌道の変化する上段縦蹴り――グラウベ・フェイトーザばりのブラジリアン・ハイ・キックが男の肩口にめり込んだ。
 鎖骨が折れるイヤな感触が伝わってきた。男は声にならない悲鳴を上げ、肩を押さえて座り込んだ。アタシはさすがにやりすぎた、と呆然となった。
「逃げるよ!!」
 由真がバッグを握り締め、アタシの手を取った。さっきまでの可愛らしい表情は消え、有無を言わせない力強さでアタシを引っ張った。
 アタシたちは脱兎のようにその場から逃げ出した。

 

 インターハイに“四〇〇メートル逃げ足”という競技があったらブッチギリで優勝できそうな勢いで逃げ出したアタシたちは、那珂川に架かる福博であい橋(ホークスが優勝するとファンがダイブすることで有名な橋だ)の袂まで来たところで足を止めた。息を整え、追ってくる気配がないことを確かめてから、アタシは橋の欄干に体を預けた。
 立ち並ぶビルの屋上のネオンが水面に映り込むテレビや雑誌でお馴染みの風景は、幻想的で見る者を惹きつける華やかさと猥雑さを併せ持っている。光に照らされたところの美しさと、その陰にある暗い闇が持っている別の意味で人の心を捉えて放さない力。アタシは自分がここにいることの現実感のなさに、しばし呆然とした。
「――真奈ってば強いんだね」
 由真はいきなりアタシを呼び捨てにした。アタシのほうは一応、徳永さん(由真の苗字)と呼んだのに、だ。彼女がアタシの名前を知っていることには少し驚いたけど、考えてみれば、アタシは学校では知らない者のない“有名人”なのだ。
「あれ、何ていう技なの?」と、由真が言った。
「どれ?」
「あの、脚を高―く上げるやつ」
「あぁ、あれは上段縦蹴り。ブラジリアン・ハイ・キックともいうんだけどね」
「病気で死んじゃった外人さんが使ってたのと同じなの?」
 由真が言っているのは2000年に急性白血病で亡くなったK-1ファイター、アンディ・フグのことらしかった。アタシは首を振った。
「あれは踵落とし」
「そうなんだ。あれも出来るの?」
「出来るよ。あんまり得意じゃないけど」
「すごいんだね。あたしにはとてもじゃないけどムリだな」
 ついさっき危険な目にあったとは思えない由真の無邪気な口調に、アタシは呆れるのを通り越して笑い出しそうになっていた。
「変わってるね、徳永さんって」
「……そうかなぁ?」
 そう言って彼女は、由真でいいよ、と付け加えた。
 それから、どちらともなく、お腹すいたね、ということになった。
 由真がいい店を知っている、と言うので、二人で西中洲から静まり返った天神中央公園を抜けて今泉まで歩いて、公園の向かいにあるカフェに入った。夜中に女子高生二人組なのを見咎められるかと思ったけど、アタシは宝塚系の男っぽい顔立ち(あまり嬉しくないけど)だし、由真はメイクをしていたので、何も言われなかった。
 アタシはコーヒー、由真はアップルタイザーを頼んだ。食べるものは由真が適当にオーダーした。
 アタシたちはしばらく(と言うか閉店まで)いろんなことを話した。特に面白いことを言ったわけでもないのに、由真は本当によく笑った。
 夜の街で遊ぶようになってから、アタシは人が浮かべる笑顔と、その裏側で浮かべている違う種類の笑顔について、とても敏感になっていた。由真はアタシの身に起こったことも、その後、アタシがどんなに荒れた生活をしているかも知っていた。それでもこんな笑顔を向けてくれる人は、アタシの周りにはいなかった。
 店を出てから、アタシはタクシーが拾えるところまで由真を送った。
 別れ際に由真が「ありがとうね。助けてくれて」と言った。アタシは何と返事していいか分からなくて、ただ「……うん」とだけ答えた。


「――ゴメン、すっかり話し込んじゃった」
 由真は店内に戻ってくると、顔の前で可愛らしく手を合わせた。彼女はこういう仕草が本当によく似合う。
「いいけどさ。誰よ、ひょっとしてオトコ?」
「そんなわけないでしょ。あたし、遊び相手のルックスにはうるさいのよ。真奈こそ誰かいいヒトいないの?」
「残念ながらね」
「ま、真奈にカレシはムリよね。恋愛観が”一撃必殺”だし」
「また、その話?」
 いつもと同じ、他愛もないやりとり。何かの心理テストで、思いついた四字熟語というのを急に言われて、前の日にフランシスコ・フィリョのビデオを見ていたアタシはとっさにそう答えたのだけれど、どうやらそれが恋愛観を表すものだったらしいのだ。コレが相当に由真のツボに入ったらしく、ことあるごとに蒸し返される。最初はやっきになって否定していたアタシだけれど、最近は諦めモードに入っている。
 どちらともなく、帰ろうか、ということになった。スターバックスを出て、渡辺通りのバス乗り場へ行った。由真は自宅のある百道浜方面へ行くバスに乗った。アタシの家は平尾の浄水通りにあるので、方向は逆になる。由真を見送ってからアタシもバスに乗った。ブラブラ歩いて帰れない距離ではないのだけれど、遅くに夜道を歩くと祖父がうるさいのだ。
 それでも、日が沈んで薄暗くなった街を、西鉄バスに揺られながら帰るのは悪くなかった。アタシはiPodを取り出して、今度はプリンスの「エンドルフィン・マシーン」を聴いた。
 不意にメールの着信音がした。ケイタイの画面を見ると、由真からだった。


――今日は楽しかったよ。


 文面はそれだけだった。珍しいな、と思いつつ、アタシは慣れないケイタイのボタンを押して「アタシも楽しかった、また明日ね」と返事のメールを打った。
 由真からの返事は、返ってこなかった。