「――セイヤァッ!!」
 アタシの裂帛の気合いが道場に響きわたった。
 西鉄大橋駅の裏、大学や専門学校が多い南区の中心地に程近いところに、アタシが通っている空手道場はある。
 もともとは空手連盟にも入っている普通の道場だったのだけれど、先代の館長が連盟とケンカして脱退してしまい、今ではアタシや工藤さんのように事情があって他の道場や学校の部活をドロップアウトした“訳アリ組”や、昔はバリバリやっていたけれど今後は趣味程度に続けたいと思っている“かつての猛者”が集う、道場と言うよりも同好会のような集まりになっている。

 どれくらい”同好会”しているかというと、空手道場の定番の挨拶である「押忍」という掛け声を、滅多に聞かないくらい、適当な道場なのだ。工藤さんだって師範代といいながら、やっていることは道場の隅で浜辺に打ち上げられたトドのように横になって、時折、思い出したように組手の相手をする程度なのだから。

 それでも、そんな雰囲気が肌に合うのか、会員は結構多い。会員の誰かのツレのドラ息子とか、空手道場を何かと(何と?)勘違いしている中学生女子(空手経験なし)とか、保護司をやっている会員の紹介でやって来た保護観察中の元ヤンキーとか、多種多彩な人材で溢れている。
 あと一つ、空手道場に付き物のちびっ子空手教室がない、という際立った特徴があるけれども、それは致し方ないことだった。お子様の教育上、極めてヨロシクナイ環境であることは他でもないアタシが保証する。オジサン達は福岡競艇の話で盛り上がっているし、セクハラまがいの発言はしょっちゅうだ。女子のシャワー室を覗かれないように、アタシは(材料費自腹で)日曜大工の真似事までやったのだから。
 八月に入ってから、アタシは朝っぱらからこの道場で汗を流していた。バンディットを修理に出したせいで電車で通わなくてはならないのが経済的に痛いけれど、家でゴロゴロして過ごすのはアタシの趣味じゃなかった。
 折しも夏休みで、学生の会員や元ヤンキーのように(今のところ)定職に就いていない連中が出てきているので、組手の相手には事欠かなかった。さすがにいたいけな女子会員を蹴り倒すわけにもいかないので、勢い、アタシの相手は男子ばかりになる。
 今も元ヤンキーを相手に、本日三本目の組手の最中だった。

 アタシの基本的な戦い方は、下段蹴りと前蹴り、中段横蹴りのコンビネーションで距離をとりながら、相手がしびれを切らして飛び込んでくるのを捌いて、中段から上段の大技に持ち込むというものだ。

 攻撃が蹴りに偏りすぎているという指摘はよく受けるし、自分でも自覚はある。ただ、近い間合いでの突きの押収は、女子同士ならともかく男子を相手にするのは、いくらアタシでも分が悪いと言わざるをえない。空手をケンカの手段(百歩譲って護身術でもいいけど)と捉えるのなら、相手の性別や力に関係ない戦い方を持っていなくちゃならないはずだ。

 元ヤンキーは二本目で受けた中段蹴りを警戒してガードを下げ過ぎ、そこをアタシに狙われて上段蹴りを連続で打たれた。慌ててガードを上げたところに、横腹に中段突きと中段回し蹴りのコンビネーションをくらって撃沈した。

 
「いやぁ、真奈さん、強すぎっすよ」
 脇腹を押さえて呻いていた元ヤンキーが、ようやく身体を起こしながら言った。

 アタシより歳上のはずなのだけれど、彼はアタシに敬語を使う。保護司に連れてこられた最初の日、組手の相手をアタシが務めたのだけれど、少々腕に覚えのあった彼はアタシを完全に舐めきっていた。ところが実際にやってみて、後ろ上段回し蹴りという大技でノックアウトされたのが、逆に彼の中でのアタシに対する評価を、異常に高いものにしたようだった。
「ガードが甘すぎるんですよ。簡単に下げちゃうから、上を狙われるんでしょ」
「冗談。真奈さんのミドルくらって腕が上がんないんすよ」
 元ヤンキーは自分の腕をさすりながら反論した。確かに、彼の腕は可哀そうなほど真っ赤に腫れ上がっていた。
 まぁ、アタシがやったのだけれど。
 中学生の女子会員の子がスポ-ツドリンク(そのままでは甘いのでアタシのは水で薄めてある)のペットボトルを持ってきてくれたので、アタシと元ヤンキーはそれを飲みながら、道場裏の涼しい日陰に移動した。
 
「真奈さん、オトコにでもフラれたんですか?」
 元ヤンキーが言った。アタシは飲んでいたドリンクを吹き出しそうになったけれど、ギリギリのところで堪えた。
「……はぁ?」
「いや、何か、あったのかな、って思ったんで」
「何かって、何がです?」
「何って……、今日の真奈さん、すっごい荒れてましたから」
 元ヤンキーは自分の意見に得心がいったように、何度も頷いた。
 意外と鋭いな、この男。
「別に何でもないですよーだ」と、アタシは言った。「自分がコテンパンにやられたからって、アタシのせいにしないでくださいよ」
「いや、まぁ、その……。何でもないなら、いいんすけどね」
 元ヤンキーはドリンクを飲み干すと、お先、と言って道場に戻った。
 確かに、アタシの気分は最悪だった。そんな気分を消し去るように、空手に打ち込んでいるのも間違いじゃなかった。
 由真からはもう一週間、何の音沙汰もなかった。
 彼女から手厳しく無視されたあの日、アタシはそのまま、逃げ出すように学校を飛び出していた。
 アタシは心の底から自分が情けなかった。
 偶然あの場所に居合わせただけで、アタシは何も悪いことをしたわけじゃなかった。こんな仕打ちを受ける謂れなどないのだし、もっと毅然としていていいはずだった。
 でもその一方で、由真に嫌われたくない、という思いが、アタシをがんじがらめに縛り上げていた。飼い主に捨てられた犬のような、というと、あまりにも自分を卑下しているようだけれど、アタシの精神状態はそれと似たり寄ったりだったのだ。
 もちろん、由真が悪いんじゃない。アタシが勝手に彼女を拠り所にして、自分の弱いところから目を背けていたのだ。
 父の事件のとき、それまで父一人子一人の家庭を心配して、何かと面倒を見てくれた近所の同級生の母親から「ウチの子に近づかないで」と言い放たれたあの日、アタシは”自分の拳を信じる”と心に誓ったはずだった。それは暴力を信じるということではなくて、自分の鍛えた力、自分自身を信じるという意味で。他の誰かに頼るのではなく、自分自身で選びとっていくという意味で。
 由真との楽しかった日々を否定するわけじゃない。いつもの他愛もない行き違いで、何かのきっかけでまた笑いあえるような気もする。彼女がアタシにとってオアシスだったことは間違いないのだし、彼女にとってのアタシも、幾分かはそういう側面を持っていたという自負くらい、アタシにだってあった。
 それでもアタシはもう一度、自分の原点を見つめ直したかったのだ。

 
 道場に戻って、元ヤンキーと部活ドロップアウト組の中学生と一本ずつ組手をやり、どういうわけだかアタシに熱い視線をおくる中学生の女の子たちに稽古をつけてから、アタシは道場を出た。
 ちょうどお昼時だった。大橋駅の正面に回り、しばらくランチを食べられそうな店を物色した。この辺りには女子大生などを相手にした洒落た店が多いのだけれど、今のアタシには量的に物足りなかった。結局、塩原にある一風堂まで歩いて、ランチセットをオーダーした。
 はしたないと言われようと何と言われようとも、アタシはラーメンを豪快に啜るのが大好きだ。ラーメンなんてお上品に食べるものじゃないのだ。
 ラーメンと餃子、ご飯のセットにご飯お替りと替え玉までして、アタシは満足して店をあとにした。
 家に帰ると祖母が、バイク屋から修理が終わったという連絡があった、と教えてくれた。
 口うるさい祖父とは違って、祖母はアタシのやることにあまり口を差し挟まない。言っても無駄だという諦めもあるのだろうけど、アタシを信じてくれている部分もある。
 約半年の不良少女時代にも、祖母は決してアタシを叱らなかった。ただ一言、亡くなった母親を悲しませるようなことだけはしないで、と言われただけだ。
 それが一番、堪えたのだけれど。
 アタシは汗まみれの道着と下着、Tシャツを洗濯機に突っ込んでスイッチを入れた。外は炎天下で、家に戻るまでにじっとりと汗ばんでいた。アタシはもう一度、シャワーを浴びた。
 例によって祖母に見咎められないように気をつけながら、下着姿で自分の部屋に戻った。

 コンポのスイッチを入れ、CDデッキのトレイを開けて、中のCDを確認する。祖母が自分のCDを聴くためにこっそり入ってきて、そのまま入れっぱなしにして置いていくことがあるからだ。一度、エアロスミスが入っているはずだと思って再生ボタンを押したら「冬のソナタ」のテーマが流れてきて、危うく持っていたコーヒーカップをひっくり返しそうになったことがある。
 入っていたのは昨日と同じ、ジェイク・シマブクロの「ドラゴン」だった。
 アタシは部屋に置いてあるポットでお湯を沸かして、インスタント・コーヒーを淹れた。
 ふと、自分の机の上に大判の封筒が置いてあるのに気付いた。アタシはカップとソーサーを持ったまま机に近づいた。ケイタイの請求書以外でアタシ宛に郵便物が来るのは珍しい。ダイレクト・メールの類なら速攻でゴミ箱行きなのだけれど、サイズは大きいし、そういう感じじゃなかった。
 アタシは見覚えのない丸っこい字で書かれた宛名を眺めた。

 平尾のここの住所と、榊原真奈様、とちゃんと書いてある。封筒は割と厚みがあって、社用のものなのか、下のほうに「株式会社タカハシ」という社名と東区香椎の住所が印刷してあった。

 聞き覚えのない会社だった。不審に思って裏返した。アタシは思わず眉根を寄せた。
 差出人の名前は「徳永由真」になっていた。