『高度成長期を尻目に・・二分脊椎症」から続きます



高度成長期に入った昭和三十年代

人々の暮らしは少しずつ便利になっていきました。。

私の住んでいた部落にもテレビが来ました。一軒、二軒、三軒・・・そして、長姉の家にも

井戸の水も『つるべ』での汲み上げから、ポンプ式に・・
長姉の家では木製の冷蔵庫もありました






そんな中、母子家庭を支援してくれる制度とか機関は有ったのでしょうか

かなりの田舎です。周りは農家ばかりです。
母が一人で子供二人養うのに、どの様な働き口が有ったのでしょうか

生活がかなり苦しかったのは間違いありません
フェルト化し固くなって縮んでしまっても、まだブカブカな姉のセーターを着て・・

踵が余ってブカブカな靴をスリッパ状態で履いて・・


それでも、小学校の入学準備に
私はランドセルを買って貰ってウキウキしていました
筆箱も鉛筆もノートも上履きもピカピカです


母の心配をよそに・・です


母は、トイレトレーニングが終了出来ない娘に
「トイレはね、我慢しちゃ駄目なんだよ。行きたくなったら直ぐに行くんだよ」と、しきりに言います


足の障害は、少しずつ進んでいました。

小学校入学の頃は足の甲が湾曲し、つま先が内側に向いていました

それでも、歩くことも走ることもスキップもそれなりに出来ていました
ですので本人としては全く気になりません


ただ、左足だけ内側に向けて、おかしな歩き方はしていたようです
「ほら!ふざけて無いでちゃんと歩きなさい!」と、しきりに注意する母

足に合わない大きくて重い姉の靴を無理やり履かせていたからだと
後悔していたようです

 



そのうえ、就学前の健康診断で心臓の雑音が見つかったのです
大きな病院を紹介され、そこで心臓弁膜症と診断されました。

そこで、学校生活は母の付き添いのもとにスタートする事になったのです。

今でもはっきり覚えています

生活費を確保しなければならない母はが教室の後ろで反物を広げ、和服をせっせと縫いながら私を見守っていたのを・・


母の苦悩の絶頂期は、この頃だったのではないでしょうか。。


『初運動会で・・二分脊椎症』 に、つづく。。