『二分脊椎症・・瘤のいたずら?』 から続きます


昭和31年、日本が高度成長期に入った頃でしょうか

父は3歳の私と、母と姉を置いて逝きました。。
その頃には、もう祖父も祖母も他界していました

間もなく母屋は壊され、納屋と化した片隅に四畳半だけが残されました
その四畳半が、母、姉、私の住む場所

遺産分与?そんなもの・・・

今の時代なら、親子三人生活出来る分だけは貰うことができたのでしょうが
時代が時代です
先妻の娘二人に 『他人にやる分は無いよ』 と言われたのだそうです
そして気が付いた時には、土地や家の名義は長姉になっていた





畑から野菜を持ってくると 『泥棒』と、 言われ

庭続きの畑の隅に野菜を作ると,、持って行かれ

「あれよ (あら) 人の土地に作ったんかい。気が付かなかったよ」 と・・



それでも気丈な母は、庭続きの畑の隅に必死に竹で囲いを作って使っていました

母は 「ここの子に生まれたayuの分は、分けて貰わなければ・・」
と、口癖のように言っていました

小さな私を姉に託して働き、そして財産分与の訴えで、ツテを頼りながらの家庭裁判所通い。
幼かった私には、あまり感じなかったのですが、生活は困窮していたに違いありません。

食べるものも、畑での作物は一年中取れるわけではありません

母が一升マスを持って近所の家に頭を下げて、お米を分けて貰いに行った姿を覚えています
パンの耳を貰ってきては、砂糖湯(砂糖を溶かしたお湯)に浸して食べたのも記憶に鮮明です

私には、寒い冬、学校から帰って飲む砂糖湯は嬉しい飲み物でした
その砂糖湯にパンの耳を浸して食べるのも嬉しかった(笑)

家庭裁判所には、私が小学校4年生くらいまで通っていたように思います
その頃、憔悴しきった母が両手の親指を中にギュッと握った拳を両脇に挟み頭を自分の胸に押し付け正座して丸くなっている姿が気になるようになりました。

幼いころは、そんな母の背中にしがみ付いて母から伝わる温かさを感じていたのですが、
さすがに小学四年にもなると・・

私 「母ちゃん、私財産なんて要らないよ」

母 「あんたはまだ子供だからそう思うんだよ。あんたはここの子だよ。土地は大切なんだよ。お米も作れる、野菜も沢山作れる。」

私 「私、卒業したら姉ちゃんみたいに東京に行くんだ。そしたら帰ってこない」

母 「帰ってこなくても、ここはあんたの生まれた所で故郷になるんだよ。折角お父ちゃんがあんたの為に植えた青桐の木もあるし・・・」

私 「じゃあ、その木切っちゃってよ。私ね、ここには二度と帰ってこないの。故郷なんて要らない。ここ大嫌いだもん!」



後に、母は私の 「ここ大嫌いだもん」 と言った言葉に、娘への財産分与の取り分を諦める踏ん切りがついたと言っていました。

ただ、戦争も疎開も経験した大正生まれの母です。
「何かが有った時に帰る場所」 と言いながら、動けなくなるまで、足げく四畳半に通っては手直しをいていました

その土地の父の元に嫁ぎいだ母は、生まれた娘に父の子供としての証が欲しかったのでしょうか。
はたまた他人と言われ、ただ追い出されるのが悔しかったのでしょうか。

今では聞くことも出来ません。。

『希望に溢れる小学校の入学』 のはずが・・二分脊椎につづく