倒産から学んだこと(4)感謝 | 風天たあこのブログ
倒産の後始末のため、夫は残務整理に追われていた時、誰のせいでも無い、あえて責任者は誰と聞かれれば私なのですが、夫は自らを責めていたようです。私が何を言ったところで彼の耳には届かず、夫は夫の物語を創りあげていきました。
その結果、医師が驚くほどのスピードで癌を創りだし、巨大化させてしまいました。詳しいことはエッセイ「夜明け前」をお読みください。

夫が緊急入院してから、私の日課は病院通いになりました。毎日病院ではモルヒネを使用してさえも夫の痛みを押えることが出来ませんでした。夫の苦しみを見るに見かねて、私はうろ覚えながらかつて本で読んだ記憶を頼りに「オーラ・ヒーリング」を病室でやってみました。驚いたことにそれを施している間、夫は穏やかな睡眠に入っていきます。
私にとって初めての体験でした。それまでの独学で、対症療法でしかない西洋医学は信用していませんでしたし、人間とは一体いかなる生命体なのか手当たり次第、様々なジャンルの本を読んでいただけで、自分でヒーリングが出来るなどと思ってもいなかったのです。

(この体験がスタートでしたが、その後機会があるごとに、ヒーリングの真似事をしていました。人間には本来生まれ持っている普通の能力として、自分及び他人や動物、植物などの生命体を癒す力を持っていることに気づきました。どなたにもその潜在的な力があると思います。自分を信じて、真剣にトライして欲しいと願っています。食を正し、心を正すことで心身の病は驚くほどに自然治癒していくでしょう。)

ところが、うろ覚えながらやってみると彼は現実に癒され、痛みから解放されていくのです。そのために夫へのヒーリングが私の日課になっていきました。面会時間最終まで病院につめていましたので、帰宅は夜遅くなります。疲れ果て自分のための食事には無頓着になっていきました。
そんなある日、我が家に居候していた従妹が、私のために玄米ご飯、塩鮭、味噌汁を用意してくれました。それを食べた時、あまりの美味しさに感動して涙が出たのです。
「智恵さん、美味しいよ!とっても美味しいよ!こんな美味しい食事を私は生まれて初めて食べた気がするよ。ありがとう、本当にありがとう!!」

一つ一つの材料は粗末なものです。でもどんな高級料亭でも食べたことの無い本質的な美味しさに私の心は感動し、涙したのです。

私は、それまでの人生で日本だけでなく世界各地の美味しいと評判のレストランや料亭を訪れていました。確かに評判になるだけのことはあり、大変美味しかったのですが、美味しさの質が違うのです。優れた食材や技術、知識があれば、誰でも表面的な美味しい料理を創れると思います。
智恵さんの料理は、それらとは一線を画したところ、比較するものの無い究極の食べ物だったと思います。

なぜそれほどの感動的な美味しさだったのか、考えてみました。その結果解ったことは、要は創る側の問題ではなく、食べる側の心のあり様だったということです。

以前にも書きましたように私はお金に不自由していませんでしたし、お金が動きたがりますので、お金を使わねばならなかったのです。高級料亭でチップをはずみ、一晩10万円(一人分ではありませんが)の食事代は日常でした。美味しいのは当たり前なのです。感動はありません。
嫌なやつですよね。鼻つまみ者ですよ。でもその当時の私はそうだったのです。お金を充分に支払うのですから、美味しくて普通です。ちょっとでも不味いと食べませんし、二度とそのお店には行きません。ただそれだけなのです。

感謝の心は露ほどもなかったのです。(充分な対価を払うのですから!)

智恵さんが用意してくれた食事は現象的には粗末なものですが、無意識の意識(潜在意識)が自ら動き、本質的な感謝を発動してきたのだとわかりました。
私はそれまでの人生で「ありがとうございます」と言ったことがないほど傲慢ではありませんが、心が震えるほどの感動を伴って「ありがとうございます」を果たして何回体験してきただろう?との疑問が出てきたのです。皆無だった気がします。

「ありがとうございます」誰もが気軽に口にするこの言葉。どちらかと言えば、ほとんど挨拶代わりに、何気なくマナーの一種として使用してきたように思います。それはそれでいいのかもしれません。言われて悪い気がする人はそんなにいないでしょうし、言わないよりは言ったほうが人との関係は良くなります。

この体験が教えてくれたのは、人から何かをもらったり、何かをしてもらったりした時の「ありがとう」とは本質的に次元の異なるものでした。

「有り難い」の意味を考えていくと、「有ることが困難」ということのようです。あり得ないことを施してもらった時に、初めて感受し、感動して、震える魂(魂の目覚め?)がその感動を伝えるために生まれた言葉なのかもしれません。

他の人がどんな心でこの言葉を使っていらっしゃるのか、私には解りませんが、少なくとも私に関しては、魂から湧き出てくる「有り難さ」に対してこの言葉を使っていたわけではありません。感謝はしていても、もっと表面的に使っていたように思います。

もしこの時、私がお金を持っていれば、疲れていたので恐らく外でお金を払って食事を済ませたことでしょう。外食をする余分なお金をもっていなかったから、疲れ果てて何も考えていなかったから体験できた魂からの教えであり、感動であり、感謝でした。お金が無いからこそ体験できたこの学びに、今心から感謝しています。「有り難い」体験をさせてもらって誰に、何に感謝すればいいのか途方に暮れるくらいの私の感謝がお判りになるでしょうか?

疲れていたから、智恵さんの心のこもった食事に感謝したという表面的な出来事ではありません。もちろんきっかけはそうなのですから、智恵さんに「ありがとう」の言葉を心から伝えますが、この時魂を振るわせたのは、もっと深い「素」の感動だったのです。

「倒産」という体験が、否応無く私から幻想の生活を剥ぎ取り、身体と心を洗い清めてくれました。身体ひとつ心ひとつの在り様で「いのち」の「有り難さ」を深く知ることが可能となる大いなる福音を感受できたのです。

麻痺していた私の心が、この時から少しずつ溶け始めたのかもしれません。まだまだ解っていないことがたくさんあります。瞬間瞬間が学びの連続です。一瞬たりとも揺るがせにできない歓喜の場が毎日目の前に広がっているのです。幻想の宴や苦境と戯れているなんて勿体無くてできません。

今回お伝えしたかったことは、何気なく通過させてしまいがちな「当たり前の出来事」の中に、とても大切な学びが潜んでいるということです。滅多にない「特別な出来事」を追うより「当たり前の出来事」(当たり前に呼吸できる、当たり前に歩ける、当たり前に今生きているなど)をじっくり観察してくだされば、日々瞬間瞬間が感動と感謝の連続になっていくでしょう。

感動は頭で考えて出来るものではありません。あれやこれやの雑多な思惑に囚われていては、目の前のある「有り難い」出来事に気づかず、人生を薄っぺらいものにしてしまうでしょう。頭が空っぽの状態(ねばならないことを放棄している)の時に、魂が不意に「感動」をプレゼントしてくれるように感じます。
感動はどこにでも存在しています。出来事や食べ物だけではなく、風や落ち葉、朝日夕日、木立、湖、川の流れ、・・・生命・・・人間を含めた自然の全てが神秘であり感動を生む源のような気がします。

しなければならないことを手放したことで、私は「感動」を受け取りました。
感動が「あり得ない稀有なこと」の意味を理解させてくれますし、それがわかる事で震えるほどの「感謝」が生まれてくるように思います。

「本当」のことは、言葉では伝わりません。一人一人の真剣な体験で感受してもらうしかないのです。誰にも「真実」の体験は瞬間ごとに訪れているのですが、心が幻想の価値観に囚われていては、何も感じないし、「奇跡」のような体験さえ、既存の価値観は陳腐な出来事として忌み嫌い素通りさせてしまいます。
言葉の限界を、特に書き言葉の限界を知ってくださいますか?
もし高尾に来ていただけるなら、一般論ではなく、あなたに必要な言葉でお話したいと思います。

感じてください。感じることが大切です。頭で、理屈で解ろうとしても難しいでしょう。
握りこんでいた山ほどの観念を手放していったからこそ感受できる歓喜を、もし少しでも味わいたいと思われるなら、無意味というより有害でさえあるかもしれない鎧のごときガラクタ意識をひとつずつ捨てていって欲しいと切に願っています。

「真実」の道に私を誘ってくれたのが「倒産」という出来事でした。この体験こそが私の人生で最大最高、最初の福音だったのです。それまでに所有してきた物や意識を「捨て」させてくれた歓喜、感動、感謝を伝える言葉が見つかりません。

ただ静かに「あ・り・が・た・き・か・な」と震える心で自らの魂に伝えています・・・。