こんにちわ、天馬です。

 

僕は中島みゆきの歌が好きなのですが、家なき子の主題歌だった「空と君のあいだに」の歌詞に下のようなフレーズがあります。

 

『君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる』

 

本当の愛情や優しさって言うのはこういう形をしているものだなぁ、と曲を聞きながらしみじみ思います。具体的な情景を作るとすれば、お腹をすかせた子供のために他人から奪ってでも食べ物を持ってきてあげる母親、といった具合でしょうか。(きっと「お母ちゃんも一緒に食べよう」「母ちゃんはもうたくさん食べたから、お前が全部お食べ」と言って全ての食料を子供に上げてしまうのでしょう、なんて無駄な想像をしてしまいます。)もちろん、強盗は犯罪です。褒められる事ではありません。ですが、その行為に対してある種の美しさを感じるのも事実です。

 

まあ現実的に、現代日本でここまで極限の状態になることは稀です。ですが、スケールを小さくしたものであれば、日常においても同じようなことはできます。他人の失敗に対して「自分がやった」と責任を被る、急いで買ってきた飲み物を「たまたま持ってた」と言って手渡す。こうしたちょっとした「悪さ」は、これが常になってしまうとあまり物事がいい方向には転がりませんが、いざという時にそういう行動もとれる、というのが、僕は「愛情」や「優しさ」だと思うのです。

 

客観的に見れば命は平等ですが、主観的に見れば命に優先順位があります。人間、見知らぬ他人よりは自分の知っている人の方が優先したいものです。知っている人の中でも特に優先したい人からそうでもない人の順序があると思います。全ての人に対して上のような優しさを振りまくことは不可能ですが、特に優先したい人に対して、自分の事を省みずに行動がとれる優しさを持つことは大切だと思うのです。そのためには、自分にとって誰(何)を優先したいか、という優先順位を意識しておくことが、後悔しない上で大切です。何かしら選択肢が分かれたときに、どちらを取るか、を常に間違えないようにするためです。(例えば僕であれば、大きな括りで言えば、家族>友人>会社の順となります。)

 

基本的に優しさは誰に対しても振りまいた方が良いです。(電車で席を譲ったり、扉を開けてあげたりするような事。)ただし、「悪になってもいい優しさ」は相手を選ばなければいけません。「この人の為だったら、ここまでのことをしよう」という思いを普段から持てるか。それがいざという時に行動できる準備となり、後悔しないための先手です。