「京介、さん?」
「ほのかちゃん、無事戻ったみたいだね」
「無事、かどうかわからないですけど」

ほのかは自分の指をマジマジと見つめた。

「よくわからないけど、桜ちゃんから薬を預かった」
「あ、ええ。ありがとう」
「すぐに飲んだ方がいい」
「うん、ありがとう」

素直に薬を手にしたほのかを見て、京介は安堵する。
(杞憂だったか)

しかし、口元まで運んだ薬を持つ手がピタリと止まったかと思
うと、キョロキョロと部屋を見渡し始めた。

「どうしたの?」
「いえ、近くに…これは何だろう。天使かな…いや…」
「まさか、天魔が?」
「ああ…これはカリエかな」
「カリエ?」
「シュトラッサーです。この前の航空機救出依頼の元凶で、桜
 の実験を失敗させた諸悪の根源ですね」
「うわ、今は嬉しくないな。急いで元に戻って態勢を…」

アウルも使い尽くしたし、天使級の相手に1人2人でどうにか
なるものでもない。学園の増援がくるまで撤退するのが妥当だ。
しかし、ほのかは首を振る。

「あれは消しておかないとダメなんです」
「ほのかちゃん?」
「今なら、多分いけると思うの」
「ちょっと、ほのかちゃん!?」
「いやぁ、使えるものは何でも使わないとね」

ほのかの指から滑り落ちた薬の瓶が、パシャンと音を立てて床
に飛び散った。

「ばっ、何を…」
「だって、人の力じゃもう無理だってわかっちゃったんです」
「それでも、撃退士が力を合わせたら…」
「私怨ですし
「俺や部長は手伝うさ」
「100人くらいいないと」
「かき集めるさ」
「嬉しいですけど…」

あはは、と寂しげに笑って答える。
「そんなに人望ないんで」

そしてほのかが地上へと続く扉へ足を向けた直後。
「行くな!」
「え?う、うわっ!?ぎゃー!」

予想外のタックルにほのかの体は床へと叩きつけられる。丁度
京介が馬乗りになった形だ。
「ちょっと、京介さん!何するんですか!えっち!バカ!」
「いや、そういう事じゃなくて」
「変態、エロス大魔王!場所を考えて下さい!」
「ん、場所が問題なのか」
「そ、そうじゃなくて…」

一瞬顔が真っ赤になるほのかだが、すぐに元へと戻る。
「そうじゃないですけど、とりあえずどいて下さい」
「ああ、悪い子に注射してからな」
「無理ですよ」

ほのかが指を少し振れば、京介の体など横薙ぎにされる。あま
り痛い目にあわせたくないが、時間もないし仕方ないとため息
ついた時だった。

「そうでもないかもよ」
「え?」

京介が左手に持っているのは見覚えのある懐中時計。
そう、あれは時を…

「あーっ!!」
「えーと、これを開くんだっけ」
「だめっ、返して!」
「遅い」

『お姉さま、どうせ無茶するだろうから…2本渡しておきます。
 暴走するようだったら、右のポケットに入ってる懐中時計を
 なんとか奪って、蓋を開けて下さい。時を止める魔法が使え
 ます。それでなんとか…お姉さんを助けて』

そして、時が止まり―気がつけば腕に注射が刺さっていた。

「いたっ」
「自業自得です、我慢しなさい」
「うう…京介さんヒドイ」
「今回ばかりは大目に見ないよ」
「鬼」

京介がほのかを背負い、地下を脱出したのはギリギリのタイミ
ングだったようだ。学園の増援組とシュトラッサーらしき者が
交戦している所を足早に走り去り、救出部隊のトラックへとほ
のか共々乗り込んだ時には、さすがに大きなため息が漏れた。

「あー、なんつう大学生活だよ。もう二度と来たくないね」
「出会いもなかったですしねー」
「え、ナンパすごかったじゃないか」
「ははは、ああいうのは出会いとは言いません」
「そうなんだ」
「そうなんです」

乗り心地の悪いトラックに揺られながらも、なんとなく上機嫌
な京介であった。

「なにをニヤニヤしてるんですか」
「そぉ?」
「変なの」
「そういえばさ、なぜだか無性に鰹節が食べたいんだけど、ど
 うしてなんだろう??」

首を傾げる京介の横で、ほのかは頬に指をあてて思案顔だ。
真剣そうなその顔は、しかし付き合いの長いものならすぐに判
る。そう、悪戯をする時のそれだった。

「さあ?どうしてかしら」
「あ、何か知ってるだろ!」
「いえ、全然」
「嘘だ、その顔は絶対に何か知ってる顔だ」
「知らないですよぉ」
「てめ!」
「きゃー♪」

その時トラックを運転していた救援部隊の学生、山田君は抑え
きれない衝動から、つい呟きを漏らしたという。

「爆ぜろ」と
「こんなものかな」

桜が薬を手に、京介へと近づいてくる。

「なあ、一つ聞いて良いかな」
「私サル語は苦手なのだけど」
「…君はほのかちゃんの中にいるのか?」
「平易な言葉で説明するのは無理。正確には中にいるわけじゃ
 ないし、存在するのかもわからない」
「君に変わったとたん、体の変質がなくなったのは?」
「そもそも存在が違うからでしょ。わたしはお姉さまじゃない
 し、見た目がお姉さまなだけじゃないかしら」
「よくわからん」
「だからサル語は苦手だと」
「…」

これ以上は無意味な会話となりそうだったので、早々に切り上
げる。
「で、飲まないの?」
「何を?」
「いや、薬。せっかく出来上がったんだろ」
「よく経口摂取だってわかったわね、注射じゃなくて」
「そういえば、まあなんとなく」
「さっきも話したけど、私はお姉さまと別の存在なわけで、今
 の私が飲んでも意味が無いわね。お姉さまに戻ってから飲ま
 ないと」
「なるほどね」
「そこで、京平君の出番というわけ」
「京介だよ~」
「お姉さまに戻ったら、すぐにこの薬を飲ませて。もしかする
 と暴れたり、拒絶したりするかもしれないから…」
「どうして?」

ほのかは戻りたくて桜に薬の作成を託したのではなかったのか。

「ほのかちゃん、戻りたいんだろう?」
「悪魔の力ってどのくらい凄いかわかる?」
「ま、戦ってきたからな」
「その力が手に入るとなったら…目的のためには手段を選ばな
 い人だったら、どうすると思う?」
「使うだろうな」
「お姉さま、天使に復讐するつもりかもしれないから…」
「天使に、なんで?」
「うるさいわね、いいのよ。詳しい事情は。とにかく、お姉さ
 まの気が変わっても、なんとかして飲ませるのよ」
「んな無茶な」
「私には出来ないんだから…。そうそう、大事な事を言い忘れ
 たわ…」
「ん?」

京介の耳元で何かを囁く。

「頼んだわよ、京介君」
「え?あ、ああ」

ニコリと微笑み、そして桜の意識は消えたようだった。

「にゃろ、名前ちゃんと言えるじゃないか」

寂しげな桜の微笑みが脳裏に浮かんだ時、ほのかのうめき声が
聞こえてきた。

「京介…さん?」
「で、君は誰?」
「だーから、何度も言ってるでしょう。頭悪いわね」
「すまん、話について行けてない」
「まったく、よくそれでお姉さまとコンビなんて組めるわね」
「ほのかちゃんは、もっと判りやすく話してくれるからな」
「失礼ね、私の話のどこがわかりにくいっていうのよ!」
「全部だよ」

京介の前で話をしているのは、ほのかだ。
いや、外見はほのかなのだが、中身が違った。

柏原に注射を打って直後、ふらりと京介のほうへ歩いてきた
かと思うと、糸が切れたようにふっつりと倒れ込んだのだ。
京介の胸の中で喘ぐように残した言葉は『あとは桜に任せる
から』だった。

何のことかわからず、戸惑う京介だったが、すぐにむくりと
起き出したほのかに突然質問されたのだ。
「あなた、お姉さまの何なの?」
それから噛み合わない会話が暫く続き、冒頭のやりとりへと
続くわけだった。


「ようするに、君はイリーナ・桜・マクダネルという名前で、
 ゲート研究の第一人者で、ほのかちゃんの後輩という事か」
「ちがうわ!」
「は?」
「後輩じゃないわ、愛する人よ」
「はぁ?」
「…その馬鹿面やめてくださらない?」
「ほのかちゃんの体で、その台詞やめてくれない?」

体が真っ二つになった柏原の遺体の横で、京介と桜(ほのか)
は睨み合いを続けた。

「まあ、いいわ。時間も無い事だしすぐに調合するから入り口
 見張ってて頂戴、京平くん」
「京介だ!調合って何するんだ」
「低脳なあなたには理解不能ね。ま、サルにもわかるように説
 明すると、お姉さまを元に戻す薬を作るって事ね」
「じゃあ、最初からそう言えよ」
「なんで私がサル語を話さないといけないのよ」
「…」

なんだかほのかの顔で言われると、傷つくなぁと思いつつ京介
は黙って入り口を見張った。
彼女がイリーナ姓を名乗った時は、ほのかが錯乱したのかと思
ったが、どうも二重人格とか精神錯乱の類ではなさそうだと、
すぐに思い直した。

(そういえば、凄い押しの強い後輩がいるって言ってたな。確
 か母国の実験で亡くなったって聞いたけど…まさか)

ちらり、と桜の方に目を向ける。

「…っかじゃないの、こんな幼稚な…」

ぶつぶつと文句をタレながら、凄まじい速度でキーを叩いたり
画面をスライドさせたりしている。もちろん、何をしているか
なんて京介には全く不明だ。

「で、どのくらいかかるんだい?桜ちゃん」
「馴れ馴れしいわね、京平くん」
「京介だ!」
「どっちでもいいわよ。ま、30分もあればいいんじゃない?」
「マジかよ」
「なによ、こんなちゃっちい設備でこれ以上早くなんて…」
「いや、凄いなってさ」
「は?」
「だって柏原が何ヶ月もかかってできなかった事を30分でや
 っちまおうっていうんだから…凄いよ。本当に」
「べ、別に…これくらい普通よ」

ふん、と赤い顔でモニターに向き直る。

(ほのかちゃんの顔で、それをされると弱い)
30分間、妄想に浸る京介であった。
『死亡を確認』
コンバットスーツの男が末永の脇に腰を落とし、冷たい声で誰
かに報告していた。

「誰だよ、あんたら」
柏原が、震える声でリーダーらしき男に話しかけたが、マスク
の奥から返事が返ってくることは無かった。彼らの注意はすで
にほのかに向けられていたからだ。

すっと二本指をほのかに向け、何かの合図をすると、慎重に銃
を構える。
「やめろ!」
京介が叫び、そして同時に発砲音が鳴り響いた。

肉塊と化したほのかの姿を想像した京介だったが、鳴り止んだ
銃声の後から聞こえてきたのは、歌うようなほのかの声だった。

『なぁるほど』

全身に銃弾を受けたのに、平然と立っている。
見た目は人間と変わらない。
しかし、まとったアウルの量が尋常ではなかった。撃退士であ
る京介にはそれが見えるが、はたしてコンバットスーツの連中
には見えているだろうかと見回した時だった。

『凄い力。これじゃ、人間に勝ち目なんて全くないわね』

ふんふん、と上機嫌に指を振る。
ただそれだけで、コンバットスーツの男達が一人、また一人と
爆ぜていった。

「う、ば、化け物…」
「逃げるな反撃しろ、グレネードを使え!」
「バカ、自殺する気か!」
「冗談じゃない、俺は逃げるぜ」

京介は、見事に統制のとれていた部隊が一瞬で崩壊する瞬間を
ただぼうっと眺めていた。
そうしてコンバットスーツを着た最後の男が飛び散ると、ほの
かがゆっくりと柏原の方を向いた。

『よかったわね、おおむね成功みたいよ』
「ひっ、ひ?」
『なによ、自分の実験が成功したんだから喜んだら?』
「ア…ひ」

失禁し、口から泡を吐いている柏原にほのかの声は届いている
のだろうか。
しかしそんなことはお構いなしに、ほのかの話は続いた。

『でもせっかく成功したのに、怪物になった彼女さんは討伐さ
 れちゃったみたいよ。どうするの?』
「あ…う」
『煮え切らないわねぇ…もう。あ、そうだせっかくだし自分で
 試してみる?』

傍らに転がる注射器を手に、ほのかがニッコリと微笑む。ブン
ブンと首を振る柏原だったが、腰が抜けてその場から逃げ出す
事ができなかった。

『心配性ね、私で実験して成功したんだから大丈夫よ。ふふ』
「たす、たすけ…」
『だーめ』

ぶすりと注射器が刺され、柏原の悲鳴が地下室に響き渡った。

頬にあたる冷たい感触で目を覚ますと、椅子に縛られていた。
ご丁寧にも、鎖と皮の拘束具を使って。

「な…んだこれは」

呻きながらなんとか発した京介の声は、ぼんやりと霞む視界の
先にいた男を振り返らせた。

「おや、気が付いたのか」
「お前、確か―」

目の前で注射を手に振り返った茶髪の男は、水泳部の部長で、
ここまで案内した男だった。名前は確か、末松だか末北だか、
そんなような名前だ。

「末永だよ」
「何も言ってないぞ」
「お前の目線が左上に行ったからな、思い出そうとしただろ」
「ああ、した」
「その後、まあいいかって顔しやがった」
「ああ、その通り」
「てことは、思い出そうとしたのは俺の名前あたりだろ」
「へぇ、最近の水泳部は心理学でも学んでるのか」
「紳士の嗜みってやつだ」

京介の軽口に乗ってくる様子もなく、末永は薄笑いを浮かべな
がら近づいてくる。注射器の中で、紫色の液体が揺れる。

「そう不安がるなって。お前に射つ方は完成版なんだから」
「完成版?…俺の方だと?」

その言葉を聞いた瞬間に、隣のカーテンからうめき声が漏れ聞
こえてきた。

「てめぇ、ほのかちゃんに何をした」
「うわ、怖っ!俺は何もしてないよ、俺は」
「なんだと」
「睨むなよ、そっちは俺の担当じゃないし。なあ?」

末永が話しかけながらカーテンを横に引き開けた。そこにはい
つかキャンパスで見かけたボサボサ頭の男がいた。
名前は知らない、が危なそうな男だったことは覚えている。
そして、前にはほのかがいた。

「ほのかちゃん!」

叫ぶ京介を無視して、男は末永に不機嫌そうな顔を向ける。
「なんだよ末永、邪魔するな」
「うっせ、絶望してからのほうが堕震しやすいんだよ」
「見世物じゃないんだぞ」

ほのかの口から吼えるような声が漏れ聞こえる。
「てめぇら、彼女に何をした!」

同じように椅子に拘束されているほのかの顔からは、大量の汗
が滴り落ちている、口に咥えさせられた布の意味する所は自殺
防止だろうか。見開いた目が、狂気の扉を開けようとしている。

「あっちはキツイぜ。何しろ柏原は変態だからな」
「失礼な事をいうな。お前よりマシだろ末永、人に戻すだけ」
「戻るもんかよ」
「黙れ」
「ま、せいぜい頑張れよ」
「大きなお世話だ。どうせお前の方だってまた出来損ないだ」
「んだと」

仲間割れしそうになった時、部屋を揺さぶるような大きな振動
があった。地上で何か大きな爆発か、もしくは破壊行為があっ
たようだ。何事かと末永と柏原が上をみあげた時、京介の頬が
ほんの少しだけ緩んだのだが、二人が気付く事はなかった。

「おお、怖い。柏原の大切な彼女が暴れてる」
「ちっ、バカの相手をしてる時間はないな」

京介には、その音の主が誰だか想像がついていただけに、彼女
という台詞に驚いた。

「彼女、だと?扉を壊そうとしてるのは…あの怪物だろ」
「あ、バカ。そんな事言ったら柏原が激怒するぞ。気持ち悪い
 化け物とか、そんなヒドイ事」
「末永、てめぇが元凶だろうが!」
「そうだっけ~?」

どうやら、地上で会ったあの巨大なディアボロはこの柏原とい
う男の元彼女らしい。問題は何故ディアボロになったか、であ
るが…まあ周囲の機材と目の前の注射を見れば大体の想像はで
きる。

「自分の彼女を実験体にしたのか」
「俺じゃない!俺はそんなことしていない!」
「そうだよ、いくら変態柏原だってそんな鬼畜な事はしないさ」
「じゃあ、お前か」
「いや事故だよ。たまたま他の実験…女の子にモニターしても
 らおうとしてたんだけど、ドタキャンしてさ。その時運悪く
 柏原の彼女が弁当の差し入れに来てたらしいんだ。まあ、俺
 には代わりのモニターとしか見えなかったわけで…」
「つまり、人違いだったと」
「ブラボー、その通り」
「人違いで済むか、末永!写真見せてただろうが!」
「そんなもん、覚えてないよ。実物と違ったし」

つまり、この二人は人を怪物変える、とんでもない実験をして
いたらしい。その途中人違で柏原の彼女がディアボロにされた
という事だ。

「で、その事と俺達のこの状況はどうつながる?」
「うん、つまりだね。柏原は化け物を人間に戻したい、俺は完
 全な怪物を作り上げたい。そういうこと」
「ほのかちゃんを、一度あの姿にして戻すのか」
「まあ、低脳の柏原が作った薬じゃ無理だろうけどね」
「俺はどうなる?」
「うん、怪物の完全体になるかな。きちんと意識を保ってて、
 俺の命令には服従して…無敵じゃん」
「何で俺達を狙った?」
「撃退士とかいうヤツでしょ。普通の人間じゃ失敗ばかりでね。
 それなら特別なサンプルを入手するしかないだろ」
「なるほどね」

京介のため息を諦めと判断したのか、末永があらためて注射器
を握り直す。

「そういうことで、運が悪かったね」
「お前さんの運がな」
「は?」
「撃退士敵に回して無事で済むと思ってんの?」
「何を強がり―」

末永が言い終える前に、背後の扉でショットガンの音が鳴り響
く。タイミングもバッチリだ。京介は、先程の振動を増援部隊
が上の怪物と戦闘したときの音だろうと踏んでいた。

ただし、予想と違ってなだれ込んで来たのは黒ずくめのコンバ
ットスーツの男達だった。

「な、なんだお前ら!」
慌てた末永が脇のテーブルの乗せてあるメスへと手を伸ばす。

「馬鹿―」
京介が制止する間もなく、無数の弾丸が降り注ぐ。恐らく、痛
いと思う暇もなかっただろう。そのくらい一瞬で全身穴だらけ
の男が出来上がっていた。

そして呆然と両手を挙げる柏原の横では、ほのかが限界を迎え
ようとしていた。