第一 大日本国体
  一、肇国
 大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。
 我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫瓊瓊杵ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給うたときに存する。而して古事記・日本書紀等は、皇祖肇国の御事を語るに当つて、先づ天地開闢・修理固成のことを伝へてゐる。即ち古事記には、
  天地の初発の時、高天ノ原に成りませる神の名は、天之御中主ノ神、次に高御産巣日ノ神、次に神産巣日ノ神、この三柱の神はみな独神成りまして、身を隠したまひき。
とあり、又日本書紀には、
  天先づ成りて地後に定まる。然して後、神聖其の中に生れます。故れ曰く、開闢之初、洲壌浮かれ漂へること譬へば猶游ぶ魚の水の上に浮けるがごとし。その時天地の中に一物生れり。状葦牙の如し。便ち化為りませる神を国常立ノ尊と号す。
とある。かゝる語事、伝承は古来の国家的信念であつて、我が国は、かゝる悠久なるところにその源を発してゐる。
 而して国常立ノ尊を初とする神代七代の終に、伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二柱の神が成りましたのである。古事記によれば、二尊は天ッ神諸々の命もちて、漂へる国の修理固成の大業を成就し給うた。即ち、
  是に天ッ神諸の命以ちて、伊邪那岐ノ命・伊邪那美ノ命二柱の神に、この漂へる国を修理り固成せと詔りごちて、天の沼矛を賜ひてことよさしたまひき。
とある。かくて伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二奪は、先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、更にこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた。即ち古事記には、
  此の時伊邪那岐ノ命大く歓喜ばして詔りたまはく、吾は子生み生みて、生みの終に、三貴子得たりと詔りたまひて、即ち其の御頚珠の玉の緒もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて詔りたまはく、汝が命は高天原を知らせと、ことよさして賜ひき。
とあり、又日本書紀には、
  伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊共に議りて曰く、吾れ已に大八洲国及び山川草木を生めり、何にぞ天下の主たるべき者を生まざらめやと。是に共に日神を生みまつります。大日孁貴と号す。(一書に云く、天照大神、一書に云く、天照大日孁ノ尊。)此の子光華明彩しくして六合の内に照徹らせり。
とある。
 天照大神は日神又は大日孁貴とも申し上げ、「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」とある如く、その御稜威は宏大無辺であつて、万物を化育せられる。即ち天照大神は高天ノ原の神々を始め、二尊の生ませられた国土を愛護し、群品を撫育し、生成発展せしめ給ふのである。
 天照大紳は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇固の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壌と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
 天照大神が皇孫瓊瓊杵ノ尊を降し給ふに先立つて、御弟素戔嗚ノ尊の御子孫であらせられる大国主ノ神を中心とする出雲の神々が、大命を畏んで恭順せられ、こゝに皇孫は豊葦原の瑞穂の国に降臨遊ばされることになつた。而して皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、
  豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。行矣 宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮りなかるべし。
と仰せられてある。即ちこゝに儼然たる君臣の大義が昭示せられて、我が国体は確立し、すべしろしめす大神たる天照大神の御子孫が、この瑞穂の国に君臨し給ひ、その御位の隆えまさんこと天壌と共に窮りないのである。而してこの肇国の大義は、皇孫の降臨によつて万古不易に豊葦原の瑞穂の国に実現されるのである。
 更に神鏡奉斎の神勅には、
  此れの鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拝くが如、いつきまつれ。
と仰せられてある。即ち御鏡は、天照大神の崇高なる御霊代として皇孫に授けられ、歴代天皇はこれを承け継ぎ、いつきまつり給ふのである。歴代天皇がこの御鏡を承けさせ給ふことは、常に天照大神と共にあらせられる大御心であつて、即ち天照大神は御鏡と共に今にましますのである。天皇は、常に御鏡をいつきまつり給ひ、大神の御心をもつて御心とし、大神と御一体とならせ給ふのである。而してこれが我が国の敬神崇祖の根本である。
 又この神勅に次いで、
  思金ノ神は、前の事を取り持ちて政せよ。
と仰せられてある。この詔は、思金ノ神が大神の詔のまに〳〵、常に御前の事を取り持ちて行ふべきことを明示し給うたものであつて、これは大神の御子孫として現御神であらせられる天皇と、天皇の命によつて政に当るものとの関係を、儼として御示し遊ばされたものである。即ち我が国の政治は、上は皇祖皇宗の神霊を祀り、現御神として下万民を率ゐ給ふ天皇の統べ治らし給ふところであつて、事に当るものは大御心を奉戴して輔翼の至誠を尽くすのである。されば我が国の政治は、神聖なる事業であつて、決して私のはからひ事ではない。
 こゝに天皇の御本質を明らかにし、我が国体を一層明徴にするために、神勅の中にうかゞはれる天壌無窮・万世一系の皇位・三種の神器等についてその意義を闡明しなければならぬ。
 天壌無窮とは天地と共に窮りないことである。惟ふに、無窮といふことを単に時間的連続に於てのみ考へるのは、未だその意味を尽くしたものではない。普通、永遠とか無限とかいふ言葉は、単なる時間的連続に於ける永久性を意味してゐるのであるが、所謂天壌無窮は、更に一層深い意義をもつてゐる。即ち永遠を表すと同時に現在を意味してゐる。現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。
 「教育ニ関スル勅語」に「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と仰せられてあるが、これは臣民各々が、皇祖皇宗の御遺訓を紹述し給ふ天皇に奉仕し、大和心を奉戴し、よくその道を行ずるところに実現せられる。これによつて君民体を一にして無窮に生成発展し、皇位は弥々栄え給ふのである。まことに天壌無窮の宝祚は我が国体の根本であつて、これを肇国の初に当つて永久に確定し給うたのが天壌無窮の神勅である。
 皇位は、万世一系の天皇の御位であり、たゞ一すぢの天ッ日嗣である。皇位は、皇祖の神裔にましまし、皇祖皇宗の肇め給うた国を承け継ぎ、これを安国と平らけくしろしめすことを大御業とせさせ給ふ「すめらぎ」の御位であり、皇祖と御一体となつてその大御心を今に顕し、国を栄えしめ民を慈しみ給ふ天皇の御地位である。臣民は、現御神にまします天皇を仰ぐことに於て同時に皇祖皇宗を拝し、その御恵の下に我が国の臣民となるのである。かくの如く皇位は尊厳極まりなき高御座であり、永遠に揺ぎなき国の大本である。
 高御座に即き給ふ天皇が、万世一系の皇統より出でさせ給ふことは肇国の大本であり、神勅に明示し給ふところである。即ち天照大神の御子孫が代々この御位に即かせ給ふことは、永久に渝ることのない大義である。個人の集団を以て国家とする外国に於ては、君主は智・徳・力を標準にして、徳あるはその位に即き、徳なきはその位を去り、或は権力によつて支配者の位置に上り、権力を失つてその位を逐はれ、或は又主権者たる民衆の意のまゝに、その選挙によつて決定せられる等、専ら人の仕業、人の力のみによつてこれを定める結果となるのは、蓋し止むを得ないところであらう。而もこの徳や力の如きは相対的のものであるから、いきほひ権勢や利害に動かされて争闘を生じ、自ら革命の国柄をなすに至る。然るに我が国に於ては、皇位は万世一系の皇統に出でさせられる御方によつて継承せられ、絶対に動くことがない。さればかゝる皇位にまします天皇は、自然にゆかしき御徳をそなへさせられ、従って御位は益々鞏く又神聖にましますのである。臣民が天皇に仕へ奉るのは所謂義務ではなく、又力に服することでもなく、止み難き自然の心の現れであり、至尊に対し奉る自らなる渇仰随順である。我等国民は、この皇統の弥々栄えます所以と、その外国に類例を見ない尊厳とを、深く感銘し奉るのである。
 皇位の御しるしとして三種の神器が存する。日本書紀には、
  天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵ノ尊に、八坂瓊ノ曲玉及び八咫ノ鏡・草薙ノ剣、三種の宝物を賜ふ。
とある。この三種の神器は、天の岩屋の前に於て捧げられた八坂瓊ノ曲玉・八咫ノ鏡及び素戔鳴ノ尊の奉られた天ノ叢雲ノ剣(草薙ノ剣)の三種である。皇祖は、皇孫の降臨に際して特にこれを授け給ひ、爾来、神器は連綿として代々相伝へ給ふ皇位の御しるしとなつた。従つて歴代の天皇は、皇位継承の際これを承けさせ給ひ、天照大神の大御心をそのまゝに伝へさせられ、就中、神鏡を以て皇祖の御霊代として奉斎し給ふのである。
 畏くも、今上天皇陛下御即位式の勅語には、
  朕祖宗ノ威霊ニ頼リ敬ミテ大統ヲ承ケ恭シク神器ヲ奉シ茲ニ即位ノ礼ヲ行ヒ昭ニ爾有衆ニ誥ク
と仰せられてある。
 而してこの三種の神器については、或は政治の要諦を示されたものと解するものもあり、或は道徳の基本を示されたものと拝するものもあるが、かゝることは、国民が神器の尊厳をいやが上にも仰ぎ奉る心から自ら流れ出たものと見るべきであらう。