深慮遠謀の覇王(徳川家康)其の5 | テンカス・気まぐれ1人旅

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最近は歴史にも興味があり、いろいろ調べ
気になった所をまとめ載せていきます。
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悲しき父


長篠では大勝を得たものの、

武田は依然として強敵である。


家康は、その後数年に亘って、

着々と内治を固め、三河・遠州の

士卒を訓練して、無双の精兵に

仕立て上げることに専念した。


対外的にはもっぱら、

同盟者である織田氏のために、

武田と北条とを牽制する役割を

つとめていたと言ってよい。


武田にも北条にも、また独力で

対抗するだけの力はなかったから、

織田との同盟はどうしても

必要だったのである。


だが、この同盟は極めて高くついた。

犠牲の最大のものは、

嫡子岡崎三郎信康を失ったことである。


信康は家康と正妻築山殿との間に

生まれた子である。


その妻は信長の娘徳姫であった。

信康は剛勇智謀、勝頼に、

「あの信康という小冠者は、

指揮進退の鋭さ、将来、

恐るべき者になろう」と、

舌を捲かせたほどの青年武将だ。


若さに任せて多少乱暴な行いもあり、

徳姫に内緒で女も愛した。

徳姫はむろん、嫉妬して父に訴える。


信長が信康に不快の念を抱いたのは

とうぜんのけっかであった。


たまたま、築山殿が信康を語らって、

武田勝頼に通じて、謀反を図っている、

という噂があり、

徳姫はこれを信長に密告した。


築山殿は家康との間がうまくゆかず

疎外され、家康を恨んでいたので、

そんな疑いを受けたのであろう。


信長は激怒して、家康に向かって

「信康の腹を切らせよ」と要求してきた。


武将にとって嫡子は最も大切な後継者である。

まして、将来有望の信康を失うことは

家康にとって、耐えがたい苦痛であったろう。


だが、家康は観念した。……

今、信長との間が決裂したならば、

徳川の家はつぶされる。家のためには、

信康を犠牲にすることもやむを得ぬ……


天正七年(1579)八月、家康は、築山を殺害し、

信康に切腹を命じた。家康にとって、

これは終生忘れることのできない

痛恨事であったろう。










人物探訪・日本の歴史(暁教育図書発刊・南条範夫氏執筆)ヨリ