後醍醐天皇の親王たち・其の4 | テンカス・気まぐれ1人旅

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城をはじめ、名所、旧跡巡りが好きです。
最近は歴史にも興味があり、いろいろ調べ
気になった所をまとめ載せていきます。
よかったら覗いてみてください。

宗良親王(むねよししんのう)


後醍醐天皇の皇子として生を
受けた時点で、
宗良親王の旅ばかりの
運命は定まってたと
言えよう。


鎌倉幕府を倒すため、
後醍醐天皇はこのわが子を
持ち駒として活用する


十歳で比叡山延暦寺に預けられ、
十五歳で妙法院門主となり
尊澄
(そんちょう)法親王と称し、
二十歳で天台座主に就任。

これはすべて叡山の僧兵たちを
味方につけるため。

千三百三十一年、元弘の乱が勃発すると、
父や兄・護良親王とともに
笠置山に入るが落城し、
捕えられて讃岐国へ流される。

その後、鎌倉幕府が倒れて京に戻るも、
千三百三十五年南北朝内乱がはじまる。

そして翌年、
後醍醐天皇が足利軍に
降伏した際に
畿内をはなれたようだ。

このとき還俗し尊澄法親王か
宗良親王に戻っていた。

しかし、
劣勢を盛り返すため伊勢大湊から
船団をもって東国へ向かい、
東西で挙兵し再起を図ろうとした
親房の作戦によって、
宗良親王は遠江に遣わされることになる。

千三百三十八年は南朝にとって
試練の年であった。
北畠顕家・新田義貞という柱石を2つながら
失ってのである。

北畠親房は退勢を挽回するために
大きな賭けに出る。

親王たちを各地に派遣し、
南軍の新しい拠点を作ろうと企だてであった。

同年九月、義良親王を陸奥国・宗良親王を遠江、
良親王を土佐へ送るための船団が伊勢の
大湊を出発した。

しかし、不運にも大嵐に襲われて船団は離散、
親房の船は常陸国東条浦に、
義良親王は尾張国篠島に漂着した。

その他、
伊豆や相模・安房などの海岸に
打ち上げれれた
者たちは、各個に捕えられ、
あるいは斬られて、
親房の南軍再建構想は
もろくも崩れたのである。

それでも遠江国白羽湊に漂着した
宗良親王の一行は、
どうにか目的の地にたどり着く。


















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