尼子と毛利と大内と![]()
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家督を継承した晴久の嫡子義久には、
もはや昔日の勢いはない。
三沢・三刀屋・赤穴の国人はすでに
毛利派である。
松江市の北方に位置する白鹿城は、
尼子氏にとって最後の砦と思われた。
永禄六年十月、白鹿城は落城した。
同九年四月、元就は富田城への
総攻撃を開始した。
しかもゆっくりと。
元就の作戦は兵糧攻めと、新宮党にみる謀略である。
この時家老の宇山久兼は、私財をなげうち城内へ
兵糧搬入を試みたが失敗した。
義久は功臣宇山久兼を毛利に通じた
という理由で斬殺した。
『老翁物語』では、『尼子の忠臣』と
久兼を評している。
こうした状況下で、
牛尾・亀井・河本・佐世・湯らの譜代衆も
富田城を退いた。
同九年十一月二十八日、名門尼子氏は
ついに毛利の軍門に降った。
しかし、
それでもなお、執念で尼子氏再興をはかろうとする
一人の人物がいた。
尼子十勇士の筆頭、また不撓不屈の人として
広く知られた山中鹿介(鹿之介)である。
この鹿介にただ一つ奇妙なことがある。
盟主尼子勝久自害により落城した播磨上月城から、
なぜか鹿介だけが生き延びようとしている。
安芸にいた毛利義久に再興を求めようとしたのか、
実は十分な説明はできないのである。
俗書ではあるが『雲陽軍実記』は大内、尼子、
毛利三家を的確にいいあらわしている。
大内義隆は武芸・軍芸の人々を粗略に扱った。
仁はあっても智と勇に暗かった。
尼子は勇には優れたが、謀略にのせられた晴久・
義久は洞察力には乏しく、智と仁にかけていた。
毛利はどうか。
小身より文武を磨き自らを練った。
仁愛をもって武士に臨み、勇猛さで敵を倒した。
同族よく相和して内部の崩壊を防いだ。
三家の盛衰は治国の指針になる、と・・・・![]()
山中鹿介(安来市立歴史資料館蔵)
(戦雲流れる西東・奈良時代後半/集英社発刊)
(尼子氏と月山富田城/北垣聰一郎氏執筆)より
