細川氏の栄光と内紛・其の3 | テンカス・気まぐれ1人旅

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家督を巡り二川分流,義稙は二度将軍に!!


永正四年(1507)、危機感を抱いた澄之派は政元を暗殺した。

すぐに高国と澄元は澄之を討ち、家督は澄元が継承した。


しかし、両者は対立を深め、畿内の国人の支持を得た高国が、

澄元とその重臣の三好之長を阿波に追い落とした。


三管領で唯一分裂せずに応仁・文明の乱を乗り越えた細川氏も、

二派に分かれた争いに突入していった。翌年、高国は前将軍の

義稙を再び将軍に就け(在職150822)、西国の雄大内義興、

近畿南部を押さえる政長流の畠山尚順・稙長(たねなが)親子・

能登の畠山義元を幕閣とする政権を樹立し、

明応の政変以後の収拾を図った。


この後、澄元は度々上洛を目論むが、果たすことなく病没した。

大永元年(1521)、義稙は高国と仲違いして阿波に出奔したため、

高国は義澄の子義春を新たに将軍(十二代、152146)に就けた。


室町時代を通じて唯一、

二度将軍になった義稙も今度は復活を果たせず、養子とした

義春の弟義維(よしつな)に上洛の夢を託して阿波で没した。


大永六年(1526)、高国政権はその内部から崩壊を始める。

高国は讒言により家臣の香西元盛を殺害したため,

元盛の兄弟の波多野元清と柳本堅治が反乱を起こし、

阿波に逼塞(ひっそく)していた足利義維や細川春元(澄元の子)

上洛を呼びかけた。


義維と春元は三好元永(之長の孫)に擁立され、堺を占領し

上洛の機を窺ったため、義稙は「堺公方」とか「堺大樹」

と呼ばれた。


両陣営の争いは容易に決着がつかなかった。

享禄四年(1531)、高国は自ら越前に赴き、浦上村宗と同盟して

上洛戦を遂行したが、天王寺(大阪市)で三好元長に大敗し

尼崎で自害した。

これにより、堺公方陣営が畿内を制圧するかに見えた。






細川高国像(東林院蔵)

政元暗殺では澄元とともに澄之を討ち、

義材が大内義興に擁されて上洛した際は

これらと組み、将軍義澄と澄元を近江に

追い落とした。以後、義興とともに幕政を

主導、細川家の家督も継いだ高国は管領となり、

事実上畿内近国の支配者となる。




細川澄元像(永青文庫蔵)

政元の養子「半将軍」と恐れられた政元が

澄之派に暗殺されると、澄元と高国は澄之を討ち

家督は高国が継ぐことに。

しかし二人はほどなく対立。

細川京兆家は分裂する事態に陥った。





上杉本『洛中洛外図』より(細川管領邸)(米沢市上杉博物館蔵)

細川家が誇った栄華は絵図の中にも表されている。


























戦国大名/細川家の栄光と内紛

(平凡社・別冊太陽/天野忠幸氏執筆)より