京都の焼亡
前後十一年の大乱の間に、
京都市街の大半は焼亡した。
平安時代いらいの有名社寺や公家の邸宅も
あるいは焼け、あるいは荒廃した。
興福寺の尋尊大僧正は「竹園・摂籙・青花・
名家・諸大夫・両局・医陰両道・神道・
儒門緒流・兼密聖教・祖師・先徳の筆跡等、
人道・仏教・神道併せて悉皆(しつかい)滅亡し
残る所なきものだり」と記しているが、
王朝貴族の一切の権威は、
最後のとどめを刺された。
当世流にいえば、
多くの文化財も、
灰燼に帰した。
同時に幕府の権威も完全に失墜した。
応仁の乱は、日本社会の発展にとって今や
反動的な役割しか果たさない貴族権力と
室町幕府権力のすべてを、
粉砕したといわねばならない。
京都文化の地方普及
大乱を避けて多くの貴族や文化人が地方に疎開し、
和歌、連歌や朱子学などを地方に伝えた。
応仁の乱の思わぬ成果の一つである。
その現象を、「文化の地方普及」ととらえる
見方もあるが、地方にも地方の高い文化がある。
伝えられたのは、京都に伝わっていた
王朝貴族の文化である。
地方、すなわち大名や国人たちに、
それを受け入れる基盤があったことを
忘れてはならない。
文化を伝えた貴族達は、もはや新しい
文化を創造するエネルギーはなかった。
彼らは、新興階層に対し、メッセンジャーの
役割を果たしたに過ぎない。
応仁の乱は、かくて文化的にも、
王朝文化に最後のとどめ刺したのである。
日本の歴史・室町幕府
(研修出版/応仁の大乱/熱田 公氏執筆)より