室町政権の確立者・義満・其の3 | テンカス・気まぐれ1人旅

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細川則之の補佐・其の2


またこの頃、

南禅寺山門事件に端を発し、

禅宗僧侶は頼之を怨み、

長老春屋妙葩は、

一門禅徒を率いて丹波に隠棲する

というようなことが起こり、

頼之は、まったく四面楚歌の間に

たつことになった。


このように、

管領頼之が幕政の表面に立って諸将の

反感を一身に引き受けている間に、

将軍義満は、応安五年(1372)十一月、

十五歳で判始(はんはじめ)の式を行い、

はじめて将軍として花押を据えた

御教書(みぎょうしょ)を出し、

自ら政務を執行するようになった。


官職も参議左中将にのぼり、

永和元年(1375)には、十八歳で参内始めを行い、

同四年には、権大納言右近衛大将となり、

北小路室町の地に新第(新しい屋敷)を造営した。


この義満の室町弟から、

足利氏の幕府を室町幕府と呼ぶのである。


そして義満は、

同四年の十二月、自ら南軍征伐のために

東寺に陣して諸軍を指揮し、

山名義理を紀伊守護に、

山名氏清を和泉守護に任じて南軍にあたらせた。


当時紀伊では、橋本正督が兵を挙げ、

大和では、十市遠影が幕軍に

反抗していたのである。


ところが、翌康暦元年(1379)二月には、

諸将の頼之に対する反感から、

ついに軍を召喚せざるを得なくなった。


そして、京都に引き上げた幕将たちは、

室町第に会して義満に迫り、管領頼之を解任し、

領国讃岐に下国せしめたのである。


この幕府の権力争いに際して、関東の氏満は、

兵を起こして将軍に代わらんとしたが

執事上杉憲春諌死(しをもっていさめる)よって

志を改め、幕府では、斯波義將が再び

管領に迎えられて、ようやく平静に復し、

妙葩も丹波から上洛して南禅寺の住侍となり、

ついで僧録司(そうろくじ)【禅徒の管理職】

として禅宗一派を統率することとなった。























日本の歴史・室町時代/研秀出版発刊

室町政権の確率者、義満/白井信義氏執筆より