駿河・遠江半国守護
九州探題を罷免され上京した了俊は、
自分に対する周囲の疑惑を、
義満に十分弁明したかったし、
むしろ、長年間にわたる九州経営に対し、
恩賞があってもよいはずだという思いが
強かった。
九州探題としての再下向も当然であると思われた。
ところが義満は了俊に何一つ問うことはなく、
駿河・遠江の半国の守護職を与えただけであった。
駿河の守護は甥の泰範であり、遠江の守護は
養子仲秋であるから、義満のこの措置は、
今川氏一門の守護職を一門内で
分割させただけである仲秋はともかく、
泰範にとっては職権の半減である。
了俊は大きな不満を抱いて、
応永十一月駿河に下って行った。
翌三年二月ににもなれば再び九州探題の
任命があるだろうという望みは、
まったくの空望みとなり、翌年三月、
官僚斯波義將の一門、渋川満頼が
新探題に任命された。
駿河・遠江の半国の守護職を与えられた了俊は、
それなりに両国の半国守護としての実績を残している。
この間、
駿河にいたことは知られているが、
駿河のどこにいたのかは明らかではない。
「門徒古事」という日蓮宗関係の試料に、
応永五年五月、日実という僧侶が了俊を
その屋形(邸宅)に訪問したところ、
折悪しく病気で対面できなかったとある。
日実はその足で今川泰範を訪問しているから
泰範の守護所からそう遠くないところに
いたようである。
了俊が駿河・遠江の半国の守護職を
与えられたことは、当然のことながら
泰範のおおいに不満とするところであった。
泰範は遠江守護も望んでいたようである。
泰範は了俊に駿河半国が与えられたのは
了俊が望んだからだと、了俊を怨んだ。
了俊はもともと父範国が駿河を自分に
譲ろうとしたのを兄の範氏に譲り、
さらにその子の氏家とその弟である
泰範に同国が渡るように努力したのにと、
『難太平記』のなかでぼやいている。
このように、
守護職の問題で、了俊は本家を立てとおし、
細川頼之は世にためしのないことだと
激賞している。
近世になって了俊が教科書的にもてはやされた
原因の一つである。応永の乱の収束段階の
応永七年正月、泰範は駿河・遠江の国務と
守護職を義満から与えられている。
了俊が探題罷免、主語職をめぐる泰範との
不和などから何を模索していったかを、
次に述べよう。
それは、
大内義弘の、いわゆる応永の乱に老残の身を
みずからかかわらせていったことである。
(室町絢爛の日々/集英社発刊)
(猛烈武将の悲劇なにゆえに/川添昭二氏執筆)より