我が来世への遺言

我が来世への遺言

我、輪廻からの解放を求め、いまだ達せず。老い重なるも煩悩多く寿命残り少なし。来世の我に我これを遺さん。

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それでは、
お釈迦様はこれらの疑問に対してどのように説いておられるのであろうか?
別のお経で説かれているものもあるが、残念ながら、疑問の多くは、説かれていないのである。

なぜか?理由として次のようなことがあげられている。

解脱に役立たないことは説かれなかった。
もし、解脱することに役立たないもの、あるいは解脱した者でないと分からないことを説いたならば、
それについて弟子たちはそれについて議論を始め、解脱への取り組みが
おろそかになる。
…から、という理由である。
(余談であるが、これは人間の本性として、誰もが「私」という「個」の喪失につながる解脱を
求めているわけではなく、無意識に解脱を先延ばしするため、解脱の追究よりも議論の中へ
逃亡を企てることが多いからと思われる。…詳しくはまた別の機会に)

「我」という決して知覚され得ない主体は、論ずる対象ではないという考え方からである。
つまり、知覚されるもの(対象・客体)は決して「我」でも「私」でもない。 
逆に、他を知覚する主体である「我」は知覚不能なものである。
それゆえ、誰もが客観的に知覚できない主体は論議の対象としてはならない。
…という考え方からである。

通常、私たちは、五蘊色・受・想・行・識)を自分であると思っている。
しかし、この色・受・想・行・識は知覚できる対象であるがゆえに、これらは自己ではない。
そして、この色・受・想・行・識を対象として知覚している「自己」は観察できないのである。

分かりにくい話であるが、例えるならば…
鏡のない世界で、一人ぼっちの「目の玉」が自分を探すようなものである。
自分以外のものを見ることはできるが、決して自分自身を見ることはできないのに似ている。
ただ、自分が存在することに「気づく」ことができるだけである。
このため、お釈迦様は、「“色”は我ではない」「“受”は我ではない」「“想”は我ではない」  
「“行”は我ではない」「“識”は我ではない」と、五蘊は「我」でないことは説いたが、
観察主体の「我」については語らなかったのである。

上記の①②と関連するが… 我々はこの世界を理解しようとするが、その理解に必要なデーターは
限られた情報でしかないかもしれないという理由である。
別の阿含経のなかでお釈迦様は、
色・声・香・味・触・法」/「眼・耳・鼻・舌・身・意」が すべてであり一切である。
それ以外の一切を説くことはありもしないことを語ることである。
という意味あいのことを説いておられる。

つまり、我々が、この世界を認識するには、
この六種の知覚を構成する「知覚対象」と「知覚器官」がすべてであり、一切である。
…というのである。
これは、別の角度から考えると、この世界や自分は何なのか?を知ろうとしたとき、
我々に与えられた情報は、たった六種類のデーターがすべて(一切)であり、
このわずかな情報から「世界」や「自分」を理解しようとしていることでもある。
つまり、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること、感じることである。

科学が進歩し、天体望遠鏡や電子顕微鏡があるとはいうものの、これらも人間の知覚の延長にすぎず、
いかなる情報もすべて六つの器官から入るのであって、それを超えるものではない。

もし、この世が仏陀や賢者達がいうようにリアルな「夢・幻」の世界であったとしたらどうだろう。
例えば、いまあなたは「夢の中」だったとしよう。
このとき、あなたは「夢を見ている自分」や、その自分が存在する「世界」を知らない。
いや、それ以前に自分が夢みて、夢の世界にいることすら知らないだろう。
かりに夢の中で天体望遠鏡や顕微鏡や解析装置を覗いて、「夢の中の自分」や「夢の世界」を
観察し分析したとしても、その本質なり真実を知ることはない。
まして、「夢みる自分」や「夢を見ている場所」が何であるかを知ることはないだろう。

そのような「目覚めたもの」でなければ知ることのできないことは説かなかったのである。

だが、解脱できなくとも、それらを知りたいのが凡夫の人情というものである。
それゆえ、説かれているものはそれなりに、
そして、説かれていないものもそれなりに一緒に考えてみよう。(笑)


[汝らのものにあらず]
お釈迦様の説かれた別の阿含経をもう一つ紹介……増谷文雄先生訳

…世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。
「比丘たちよ、汝らのものにあらざるものを捨てるがよろしい。
汝らもしそれを捨てれば、汝らの利益となり、安楽となるであろう。
比丘たちよ、では、汝らのものにあらざるものとはなんであろうか。
比丘たちよ、色(肉体)は汝らのものにあらざるがゆえに、これを捨てるがよろしい。
汝らもしこれを捨てれば、汝らの利益となり、安楽となろう。
 受(感受)は汝らのものにあらざるがゆえに、……(以下同文)
 想(表象)は汝らのものにあらざるがゆえに、……
 行(意志)は汝らのものにあらざるがゆえに、……
 識(意識)は汝らのものにあらざるがゆえに、これを捨てるがよろしい。
汝らもしこれを捨てれば、汝らの利益となり、安楽となろう。
比丘たちよ、それは、たとえばジェータ林の樹の幹や枝や葉のようなものであって、
もし人ありて、それらを伐ったり、焼いたり、あるいは、思うままに処分したとするならば、
汝らは、彼に、文句をいうであろうか」
(比丘);「大徳よ、そういうわけにはまいりません」
(世尊);「では、その理由はなぜであろうか」
(比丘);「大徳よ、それらは私どもの我にあらず、また私どもの所有でもないからであります」
(世尊);「比丘たちよ、それと同じように、
“色”は汝らのものにあらざるものであるがゆえに、これを捨てるがよろしい。
もし汝らがこれを捨てるならば、汝らの利益となり、安楽となるであろう。
 “”は……(以下同文)
 “”は……
 “”は……
 “”は汝らのものにあらざるものであるがゆえに、これを捨てるがよろしい。
もし汝らがこれを捨てるならば、汝らの利益となり、安楽となるであろう」

これを読まれてどうだろうか?
「あなたの五蘊(身心)は、あなたのものでないから、さっさと捨てなさい」
五蘊(身心)は他人の林の木々のように、勝手に処分されても文句が言えないぐらいのものなのだ」
「だから、このような五蘊(身心)を捨てると、すごく楽になって、得するよ!」
…と、常識からいえばとんでもないことを言っておられるのである。

もちろん、これは自殺をほのめかしているわけではない。
これは、五蘊(身心)を自分、あるいは自分のものと思い込み、それに執着し、
その喪失と劣化を恐れて日々を送っている私たちに五蘊(身心)からの解放をすすめているのである。

ところで、このような教えを本やお寺や仏教教団で読んだり聞いたりしたことがあるだろうか?
たぶんそのような人はそう多くはないだろう。
なぜか?
それは、信者の利益になっても、お寺の“ご利益”にはならないからである。(冗談…!(^^)!)

では、また…







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