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ほんの数秒間、2人はかつて愛し合っていた瞬間に戻った。困難を目前にしてしばし現実逃避しているだけだと思いたかったが、そうではないことを佐知子は知っていた。
ずっと望んでいたことだった。
奥村は名残惜しげに体をそっと離し、佐知子に口づけした。「無事に脱出しよう。絶対に」
佐知子は頷いて、再び大二郎の待つ階下への脱出ルートを進んだ。上の音の様子からすると、気づかれていないようだった。佐知子は安堵感とともに部屋に戻る入り口に到着した。
「奥村は」
「今降りてくるわ」
佐知子は、このときまで盗聴器の存在を忘れていた。内心の動揺を大二郎に悟られないよう努力したが、今さら無駄だと思い直した。大二郎が奥村について質問してきたのは、ただ市ヶ谷班に聞かせるため形式的に放った言葉に違いない。
奥村は、ゆっくりとした足取りで2人に近づいてきた。大二郎の存在に驚きを隠さなかった。「所長…」
大二郎はまるで舞台台詞のように、奥村に話しかけた。
「奥村…いや、蒋永春さん、とお呼びしたほうがよいかな?長年騙しつづけた相手に救助される気持ちはどうかね」
佐知子はたしなめようとしたが奥村に目で制された。その瞬間、大二郎対奥村と佐知子という構図になってしまったと思った。
「一度僕を誘拐した所長が、今こうして救助側にいる理由を教えてもらいたいですね」
奥村の挑戦的な態度に大二郎は鼻白んだ。「確かに救助側にいるが、お前を許した訳でもなければ、救助するつもりもない」
次の瞬間、大二郎は胸ポケットから拳銃を取り出した。素早い動作でトカレフを握りしめると銃口を奥村に向けたのだった。
(つづく)
この小説はフィクションであり、作品に登場する団体や個人は実在しません。