「何を甘えてるのっ!お兄ちゃんでしょっ」
修一の右頬に火花と星が飛んだ。母親から叩かれたのは、12年生きていて初めてだった。悪友に殴られ慣れた修一だったが、ショックと相まって顔全体がジンジンする。涙腺が緩んできそうだったので、病院の廊下を駆け出した。
岩井家では、両親にお願いをひとつ言えるのが毎年夏休みの恒例だった。
といっても、小さな中華料理店を切り盛りする岩井家は裕福ではなかった。妹の遥は生まれつきの難病で、治療費がかなりかかった。毎晩頭を抱えながら電卓を叩く母親の背中を見て育ってきた修一は、これまで無理なお願いなどしたことはなかった。
だが、今年の夏休みは地元に野球場が出来て初めての夏、しかも修一と遥のひいきにしている阪神が遠征にくるとなれば、絶対に遥と行きたかった。両親への手紙に熱いメッセージを書いたのだった。
遥はこのところ体調が良く、主治医も一時外出なら可能かもねと笑っていたが、遥の容態は先週急変した。
デーゲームなんてもってのほか、絶対安静を命じられた。遥は諦めた表情で「ごめんなお兄ちゃん」と謝った。
修一はそれでも食い下がった。最悪、自分一人でも行けないだろうか。母親に陳情した瞬間ぶたれたのだった。
なんだよ遥ばっかり。僕だって遥と行きたかったさ。こうなったら家出してでも行ってやる。
修一は家のレジから売上をくすねた。リュックサックに衣服をつめ、自転車で家を出た。
阪神は大勝し、修一は解放感と興奮を楽しんだ。家出のことをすっかり忘れていたが、見せられなかった遥に報告しようとそのまま病院に向かった。
(つづく)