◆4月16日午後2時45分◆
新宿区救命センターに到着した佐知子は、
奥村の変わり果てた姿に言葉を失った。
点滴につながれ、ベッドに臥してはいるが、
サイドテーブルにはペンとルーズリーフを置いている。
吐血した血液がシーツに点在し、看護士が拭いた努力がそれらをピンク色にみせている。
奥村の眼窩は大きくくぼんだようにみえるが、命の輝きは失われていなかった。
奥村は、佐知子の動揺を受けとりたくないのか、
ことさら気丈に振る舞った。
しかし気管支が癌細胞に圧迫され、変声しており、
話すほうも聞くほうも難儀した。
会話がつらくなった奥村は、ルーズリーフを手にとり筆談に切り替えた。
佐知子は、これが奥村の声を聞く最期になるかもしれないと思った。
奥村は唾をのみこむのもつらそうにしており、
佐知子は思わず彼の背中をさすり、水を与えた。
奥村はルーズリーフに必死に記していた。
佐知子はなぜか書き終えるまで覗いてはいけない気がして、ただ背中をなでていた。
奥村のペンがとまったようなので、佐知子はルーズリーフに目をやった。
「ありがとう」
奥村は少年のような表情をみせた。
佐知子は溢れそうになる涙をこらえ、話しかけた。
「何いってるの。今さら…仕事なんだし」
奥村は、言葉と裏腹な佐知子の気持ちを悟り、ゆっくりと頷いた。
殺人ウィルスによって死の淵に立たされた不幸のなかで、
2人の間にしばしの幸福が満ちあふれた。
道ならぬ愛の結末にしては、残酷ではないかと佐知子は思っていたその時、
三崎大二郎が入室してきた。
「お取り込み中申し訳ないがね、患者をモニターせねばならんので隔離させてもらうよ」
冷たく言い放った夫の口元は、醜く歪んでいることを佐知子は見て取った。
(なんて悪魔なの)
大二郎にとっての至福は、奥村の最期を佐知子が看取れず、
深い悲しみに突き落とすことにあった。
大二郎は、自らの手で奥村を乱暴にストレッチャーに移し終えると、
にやにやしながら奥村の部屋を出ていった。
佐知子は、薄暗い廊下で独り、人目はばからず泣き崩れた。