■前回の記事で説明不足があったので追記しておきます。
「鳥見山で即位した翌日にサイババが死にました^^;」
これについてですが、サイババはキリスト(世界の王)であり、あのアフロヘアーが王冠の象徴だったそうですが、僕が即位したので政権交代で他界したということです。
実によく出来たストーリーですが、冗談なので本気にしないでくださいね(笑)
ちなみに、オクト氏は僕のお陰で神憑りが解けたそうですが、今は僕のことを普通の人間の男だと思っているそうです。
でも、それは違います!
僕は明らかに異常な変人だからです(笑)
【2月4日】
【藤原不比等とは何者か
】
![!?](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/094.png)
■日本史の中で、桓武天皇に匹敵するほど悪名高い藤原不比等は、藤原氏の祖である「藤原鎌足」の後継者です。
藤原鎌足は、臨終の際に天武上皇から藤原姓を賜るまでは「中臣鎌足」でしたが、こっちの名前の方が一般的には有名かもしれません。
しかし、中臣鎌足は謎の多い人物で、渡来人だという説があります。
中臣氏は忌部氏とともに祭祀を司っていた古代豪族ですが、歴史の表舞台から姿を消して、裏舞台で活躍していた氏族でした。
それが飛鳥時代になって突然、中臣姓を名乗る鎌足が表舞台に登場し、「大化の改新」というクーデターの中心人物となるのです。
有力な渡来人が中臣氏に養子に入って、日本転覆を謀ったと考えたくもなるもので、定説というか通説によると、中臣鎌足の正体は百済の王子の「扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)」だったそうです。
豊璋の生没年は不明ですが、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子とされています。
しかし、この説は根拠に乏しくて信憑性は低いです。
それは百済の歴史を研究すれば分かりますが、それ以前の問題として辻褄が合わないのです。
細かい説明をすればキリがないので、大雑把に説明します。
豊璋は確かに日本に渡来しており、『日本書紀』では631年と記録されています。
そして、660年に百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされたという知らせを受け、662年に約30年ぶりに百済に帰国しましたが、668年に唐の都に連行されて流刑にされたと伝えられています。
中臣鎌足の没年は669年なので1年違いですが、
豊璋と鎌足は記録も人物像はあまりにも違いすぎて、明らかに別人だといえます。
また、鎌足の生年は614年ですが、豊璋の父親の義慈王の在位が641年~なので、鎌足が義慈王の息子だとするのは無理があります。
それよりも、「中国(唐)からの渡来人」だと考えた方がスマートで、こちらも根拠は乏しいですが、豊璋説のような多くの矛盾は抱えていません。
鎌足は早くから中国の史書に関心を持ち、遣唐使が開いた塾で儒教を学びました。
そして、鎌足の娘(不比等の妹)は唐の第三代皇帝・高宗の后になっているので、鎌足は百済の王子などてはなく、「唐の皇子」だったとする方が納得度が高いと思います。
それで僕は「中臣鎌足は中国系だ」とよく言っているのですが、今回検証したところ「日本人だった」という結論に至りました。
大化の改新は非常に複雑で真相が読めず、また、僕自身がその時代までの歴史究明が進んでいなかったので、今までスルーしていました。
当時の権力構造を考察すると、「中大兄皇子が中臣鎌足らと協力して蘇我一族を倒した」というような単純な話ではなく、その裏に隠された史実があるのです。
しかし、最近、不比等シンクロが多く、鬼将軍からの質問もよく受けるようになったので、まず鎌足について改めてリサーチしてみました。
■まず、Wikipediaを見ると何てことはない![!!](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/093.png)
![!!](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/093.png)
鎌足の父母が明確に記されていました(笑)
父:中臣御食子、母:大伴智仙娘
これが事実かどうかは分かりませんが、少なくとも否定する理由は何もありません。
父は文字通り「中臣氏」で、母の大伴氏というのは「忌部氏」の家系です。
問題となる最大の疑問は、鎌足がなぜ表舞台に登場して、「大化の改新」の立役者となったのかということです。
大化の改新は645年(現在は646年とされている)ですが、定説というか通説では、その頃から中臣氏の台頭によって忌部氏が宮中祭祀から排除されていったとされています。
それが「大化の改新の真相」だとさえ主張している学者も少なくないようで、僕も少なからず同様のイメージは持っていたのですが、忌部氏は現在でも裏天皇としての最高権力を保持しています。
中臣氏が忌部氏を排除しようとした可能性はあり、それが「大化の改新」だったということに特に異論はありませんが、明確な根拠を示す説を見たことがありません。
しかし、リサーチを続けていると理由らしきものが出てきました。
「『日本書紀』によると644年に中臣氏の家業であった祭官に就くことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた」
つまり、鎌足は裏舞台の祭官になるよりも、表舞台の権力を掌握したかったのでしょう。
実際には「裏」が「表」を動かす権限を持っているのですが、真の闇帝王である忌部氏が全権を掌握していたために、中臣氏は単なる祭祀氏族として扱われていたのかもしれません。
この辺りのことは、聖徳太子(3人の人物)の正体を完全に突き止めるまでは断定できませんが、物事には順序があり、まずは「日本建国」の真相について知る必要があります![下矢印](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/121.png)
![下矢印](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/121.png)
■『日本建国』の真相については、前回の記事である程度の概要を説明しました。
今回は少し別の角度から、スサノオ王家である「出雲族」の渡来について書いてみました。
この記事を読めば、僕が「中臣鎌足=豊璋説」を否定する理由が分かるはずです。
『先代旧事本紀』に次のように記されています。
「高天原から追放されたスサノオは、子のイソタケルを率いて新羅の曾尸茂梨に降りた。
スサノオはこの地に居たくないと言い、埴土で船を作って出雲国に渡った」
もちろんこれは現代語訳ですが、新羅の曾尸茂梨(ソシモリ)とは、韓国の春川市にある牛頭山のことだとされています。
出口王仁三郎も度々この地に降臨したそうです。
牛頭山の名前の由来は、スサノオの別名「牛頭天王」から来ています。
そして、スサノオ(フツシ)には実際に「イソタケル」という子がいましたが、アリオンによるとフツシは出雲で生まれたとのことです。
ということは、牛頭山から来た「スサノオ」は、フツシの父親か祖先ということになります。
イソタケルは「五十猛命」と書きますが、牛頭山から来たイソタケルとは、五十人の勇猛な兵士を意味しているようです。
その伝承に因んで、フツシが息子の1人に「イソタケル」と名づけたのでしょう。
■ところで、スサノオが牛頭山に降りる前の高天原とは、どこを指しているのでしょうか。
新羅の西に「百済」という国がありましたが、古代朝鮮の歴史書『百済本紀』の建国神話には、次のように書かれています。
「北方の高句麗の王・朱蒙には、沸流と温祚という二人の息子がいた。
二人は大勢の部族を率いて南下していく途中で二手に分かれた。
兄の沸流は海に面したミチュエルに、弟の温祚はウィレソに建国した。
温祚の国は繁栄して後に百済となった。
一方、沸流の国は衰退し、いつの間にか姿を消した」
ここで沸流(フル)の記録が途絶えているのですが、それが牛頭山に降り立った「スサノオ」だった可能性が高いです。
もちろん、根拠はいくつもあります。
「フル」という名はモンゴル系の名前ですが、スサノオの本名「フツシ」もモンゴル系の名前で、フツシの父の名「フツ」もモンゴル系の名前です。
そして、フツシの後継者であるニギハヤヒの本名は、沸流と同じ読み方の「フル」なのです。
沸流の父親は、高句麗の初代王・朱蒙(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)ですが、蒙は蒙古(モンゴル民族)の蒙であり、高句麗はモンゴル民族の故地である満州に位置しています。
つまり、スサノオ一族はモンゴル人だったのですが、朱蒙の父の名は解夫婁(ヘブル)といいます。
すなわち、解夫婁はヘブル人(イスラエル人)だった可能性があるのです。
「騎馬民族征服王朝説」によると、失われたイスラエル10支族は騎馬民族スキタイと合流し、古代日本に渡来したとされています。
スキタイは紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系の遊牧騎馬民族とされていますが、近年の研究では「モンゴル発祥説」が有力視されています。
イスラエル10支族が住んでいた北イスラエル王国は、紀元前722年にアッシリアの侵攻を受けて滅亡し、彼らは歴史の裏舞台から消息を断ちました。
そして、スキタイと合流して同化したと考えられていますが、紀元前5世紀前後に北インドで生まれた釈迦もスキタイ族の王子でした。
「スキタイ」はギリシア語ですが、イランでは「サカ」、ガンダーラ地方では「サキャ」、ネパールでは「シャーキャ」と発音します。
シャカ族の正式な発音は「シャーキャ」なので、釈迦族はスキタイだったことになります。
釈迦の父親の名前は「浄飯王」で、モンゴル系だったと言われていますが、まさにモンゴル系スキタイ族であり、イスラエル10支にルーツがあるのです。
釈迦の名字の「ガウタマ」は「最上の牛」を意味しますが、釈迦が説法を行なった祇園精舎の守護神も「牛頭天王」でした。
京都の祇園にある八坂神社の主祭神も「スサノオ」ですが、もともと神名であるスサノオ(牛頭天王)とは、イスラエル10支族が崇拝していた主神「バアル」のことです。
イスラエル10支族の中でも特に雄牛を部族の象徴としていたのが「ガド族」で、釈迦と解夫婁(ヘブル)は時代も国も違うけど、同族だった可能性が極めて高いといえます。
■話を戻しますが、アリオンによると、紀元前3~2世紀頃、アマ族と呼ばれる部族がパミール高原を出発し、2つのグループに分かれて日本列島に渡来したそうです。
スキタイが活動していたのは紀元前8世紀~紀元前3世紀なので、アマ族のグループの1つがスキタイだった可能性があります。
実際に、アリオンの話でも「アマ族の多くはモンゴル系」とのことです。
そして、「アマ族の一部はオリエント系」とのことですが、それは紀元前586年に滅亡した南ユダ王国に棲んでいたユダヤ人をおいて他に考えられません。
かつて、古代イスラエル王国は信仰の違いなどの理由から、「北イスラエル王国」と「南ユダ王国」に分裂し、いずれも滅亡の道を辿りました。
アリオンの話によると、アマ族の2つのグループは日本で合流し、一致協力して国を治める約束をしていたそうなので、日本で「イスラエル王国の再建」を夢見ていたのでしょう。
アマ族のグループの1つは、陸路ルートで各地で仕事をこなしながら移動し、中国の江南地方から博多に上陸したそうです。
これを便宜上「日向族」と呼びますが、彼らが2支族のユダヤ人であったことは間違いありません。
そして、原住民を併合しながら強大な国家を建設していたそうです。
その後、もう1つのアマ族のグループが、海路ルートで移動しながら各地で仕事を済ませ、朝鮮半島から出雲に上陸したそうです。
これを便宜上「出雲族」と呼びますが、彼らこそがスキタイと合流したイスラエル10支族だったことは間違いありません。
それが、牛頭山から出雲に渡来したスサノオ(沸流)率いるイソタケル軍団の正体なのです。
アリオンによると、日本に上陸した出雲族の族長はスサノオ(フツシ)の曾祖父だったそうですが、それが『百済本紀』に記されている「沸流」の正体だということになります。
■西暦122年頃、出雲国沼田郷(島根県平田市)でフツシが誕生しました。
そして、須佐で王位を継承して「須佐之男」と呼ばれるようになりました。
神名の「素戔嗚尊」と同じ読み方ですが、 これは偶然ではなく必然で、現人神として定められていた名称なのです。
歴史的には別の意味があり、世界征服を成し遂げたアレクサンドロス大王が、ペルシアの古都スサを征服して「スサの王」を名乗ったことに由来します。
出雲族はアレクサンドロス大王の名乗りを継承する部族でもありますが、それを利用した「日向族」による歴史の改竄と欺瞞も色々と突き止めています。
その最大の為政者は、聖徳太子に続く藤原鎌足の後継者「藤原不比等」だと断定しておきます。
百済建国の祖は沸流の弟の「温祚」であり、その後裔の豊璋が「藤原鎌足」と同一人物であるはずがないということです。
簡潔にまとめたので説明不足な点も多いですが、それなりに納得して頂けたことと思います。
とりあえず歴史の話は一旦中断して、次回からは「女性性の時代」についてのテーマになりますが、ストーリー的にはスサノオ(瑞の御霊)の一連の記事の続きです。
▼地上姫も舞台を観に行ったそうです。
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