世の中にあまりに自分の知らないこと、できないことが多すぎるためか、自分はあれができない、これができないと、できないことの在庫整理みたいなことを始めてしまう傾向が強い。そうやって何度も自分のできないことを認知し続けていると、自分にできることが一つもないのではないかという感覚になってくる。
ポジティブなものには気づきにくいが、ネガティブなものには気づきやすい。ザオラルが一発で成功したときには「成功確率を引き当てた」とは思わないが、失敗したときには何度も「成功確率を外してしまった」と考えてしまいがちだ。同じように、できることには目が向きにくいが、できないことはやたら目立って見えるのかもしれない。ゲームのことでしか人生を考えられない。
そうやって日々目にしている自分ができないことのリストは、「自分は○○ができない/知らない」⇒「だから自分はこういう人間だ」というような考え方に結びつきがちな気がしてならない。それによって少しずつわかったような気持ちになり、最後には何ができないかでしか自分を定義できない状態になっていく。できないことを並べ立てて自分を構成する要素のように見立てていくと、それがいつの間にか自分が能動的に「やらない」ことのリストにすり替わっていくような気がする。
私は得体の知れないものがあると不安になるので、そういうものに触れたときには何かしらのポイントを取り上げては、自分の中にある何らかのパターンや類型に当てはめて安心する傾向がある。こいつはこれを「やる」、こいつはこれを「やらない」、というような能動的な行動の要素が、その人間に対する類型を形成するヒントになり、その決めつけからこいつはこういう人間だ、というように考えることになる。
こいつは○○だからこうだろう、こいつは○○のくせにこういうことをやる、ということもよく思う。その傾向が強いあまり、他人もそう考えているのだろうという決めつけが起こりがちになる。
空気を読む文化の中においては、一度形成された類型からはみ出した行動をとった者に対しては、その行動をもとにして類型の再定義が行われるので、良くも悪くも相手に対する評価がひっくり返ることになる。私の場合は、初対面の相手に対してはとりあえず良く思われようとして、自分がまったく思わないことでも必ず嘘をつき、相手の中に良い類型が形成されるように行動してしまうので、その後その類型からはみ出した言動をして評価がひっくり返ってしまうのを恐れながら生きることになる。
その結果、その場に二人以上の人間がいたりすると、Aにとっての悪い類型に引っかからないよう、Bにとっての悪い類型に引っかからないよう、何も変わらないことが最善と考えてしまい、普通のことしか言わなくなるし、会話の外にいる相手の悪い類型に引っかからないことを意識するあまり、発言を届けまいとして、声量がほとんど出なくなったりする。これは、おそらくその後一生関わらないだろう、不特定多数の相手に対してもこれは起こるので、外を歩いていたり電車に乗っていたりでも同じように起こる。
自分の「できない」ことが能動的に「やらない」のリストにすり替わった結果、今度はこれ自身が自分自身の類型を形成していくのに利用されてしまうようになり、誰が見ているわけでもないのにその類型からはみ出すことを恐れ、「自分は○○するタイプじゃないから」というような、「やらない」を維持することで自分の類型からはみ出さないことを心がけてしまい、どんどん自分の行動を狭めていく要因になっていく。
が、そもそもの「できない」ということはただの事実であって、それを自分の類型だと決めつけるのはもったいないし意味がないのでやめたほうがいい。それは「リンゴは青くはない」と言っているようなもので、それ自身の性質を説明するようなことでは一切ない。死ぬまで何が起こるかはわからないし、人生は常に流動的なのでどこかに根を下ろすことばかりを考えるべきではない。ものごとに溢れる現代において、自分の存在を確かめられるようなアイデンティティを見つけることに焦り、とりあえずそこにあった自分にできない事柄を並べて自分に組み込んで類型の安定をはかろうとするのは、もしかしたら自然な心の動きなのかもしれないが。
何ができないかで自分を構成しようとするのではなく、何ができるかで自分を構成して、人生を豊かにしていけ。
豊という名前のやつの人生が豊かであったためしはない(決めつけ)
ポジティブなものには気づきにくいが、ネガティブなものには気づきやすい。ザオラルが一発で成功したときには「成功確率を引き当てた」とは思わないが、失敗したときには何度も「成功確率を外してしまった」と考えてしまいがちだ。同じように、できることには目が向きにくいが、できないことはやたら目立って見えるのかもしれない。ゲームのことでしか人生を考えられない。
そうやって日々目にしている自分ができないことのリストは、「自分は○○ができない/知らない」⇒「だから自分はこういう人間だ」というような考え方に結びつきがちな気がしてならない。それによって少しずつわかったような気持ちになり、最後には何ができないかでしか自分を定義できない状態になっていく。できないことを並べ立てて自分を構成する要素のように見立てていくと、それがいつの間にか自分が能動的に「やらない」ことのリストにすり替わっていくような気がする。
私は得体の知れないものがあると不安になるので、そういうものに触れたときには何かしらのポイントを取り上げては、自分の中にある何らかのパターンや類型に当てはめて安心する傾向がある。こいつはこれを「やる」、こいつはこれを「やらない」、というような能動的な行動の要素が、その人間に対する類型を形成するヒントになり、その決めつけからこいつはこういう人間だ、というように考えることになる。
こいつは○○だからこうだろう、こいつは○○のくせにこういうことをやる、ということもよく思う。その傾向が強いあまり、他人もそう考えているのだろうという決めつけが起こりがちになる。
空気を読む文化の中においては、一度形成された類型からはみ出した行動をとった者に対しては、その行動をもとにして類型の再定義が行われるので、良くも悪くも相手に対する評価がひっくり返ることになる。私の場合は、初対面の相手に対してはとりあえず良く思われようとして、自分がまったく思わないことでも必ず嘘をつき、相手の中に良い類型が形成されるように行動してしまうので、その後その類型からはみ出した言動をして評価がひっくり返ってしまうのを恐れながら生きることになる。
その結果、その場に二人以上の人間がいたりすると、Aにとっての悪い類型に引っかからないよう、Bにとっての悪い類型に引っかからないよう、何も変わらないことが最善と考えてしまい、普通のことしか言わなくなるし、会話の外にいる相手の悪い類型に引っかからないことを意識するあまり、発言を届けまいとして、声量がほとんど出なくなったりする。これは、おそらくその後一生関わらないだろう、不特定多数の相手に対してもこれは起こるので、外を歩いていたり電車に乗っていたりでも同じように起こる。
自分の「できない」ことが能動的に「やらない」のリストにすり替わった結果、今度はこれ自身が自分自身の類型を形成していくのに利用されてしまうようになり、誰が見ているわけでもないのにその類型からはみ出すことを恐れ、「自分は○○するタイプじゃないから」というような、「やらない」を維持することで自分の類型からはみ出さないことを心がけてしまい、どんどん自分の行動を狭めていく要因になっていく。
が、そもそもの「できない」ということはただの事実であって、それを自分の類型だと決めつけるのはもったいないし意味がないのでやめたほうがいい。それは「リンゴは青くはない」と言っているようなもので、それ自身の性質を説明するようなことでは一切ない。死ぬまで何が起こるかはわからないし、人生は常に流動的なのでどこかに根を下ろすことばかりを考えるべきではない。ものごとに溢れる現代において、自分の存在を確かめられるようなアイデンティティを見つけることに焦り、とりあえずそこにあった自分にできない事柄を並べて自分に組み込んで類型の安定をはかろうとするのは、もしかしたら自然な心の動きなのかもしれないが。
何ができないかで自分を構成しようとするのではなく、何ができるかで自分を構成して、人生を豊かにしていけ。
豊という名前のやつの人生が豊かであったためしはない(決めつけ)