言葉の法力。 | たいやき社長、書く。

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前回の記事で、私が、「スピリチュアルな世界、精神世界を探求してつかんだ本質は、『学びと感謝と祈り』であるということです。スピリチュアルとは、要するにこれだけなのです」と述べました。ここで、この結論だけ聞いて、「そうなのか、スピリチュアルの本質とは、『学びと感謝と祈り』なのか」と、知識を得ただけでは、スピリチュアルの本質に触れたことにはなりません。


これで、知識として、「スピリチュアルの本質とは、『学びと感謝と祈り』なのですよ」と唱えたところで、その言葉には、何の法力もありません。言葉には、言霊という霊力が宿っておりますが、同じ言葉を発するにしても、やはり、人格や霊格に磨きのかかった者と、そうでない者との言霊の力、すなわち、法力には、天と地の差があるのです。


私は、20年の間、スピリチュアルや精神世界の探究をしてきて、ときには狂いました。また、「命」という字は、「人は一度叩かれて、本物の人となる」というように言われますが、神仏からも 〝 叩かれ ″ ました。地獄にも堕ちました。ありったけのお金も投入してきましたし、膨大な時間も費やしてきました。そのようにして、一周してきた人間の言葉と、一周してきた人間の言葉を真似るだけの言葉とでは、言葉の力が決定的に違います。その差を埋めることは不可能です。


言葉も、結局、「だれが言うか」「どのような人間が言うか」であるということです。霊的な世界に通じている人間と、神も仏も信じていないような唯物論者が唱えるお経は、本当に、法力、効き目が桁違いです。残念なことに、ただいまのほとんどのお坊さんのお経は、何の効き目もないでしょう。大学を出て、ただ僧侶の資格を取って、ただお経を読み上げているというお坊さんは多いのです。言霊の霊力、言葉の法力を高めるためには、やはり、第一に厚き信仰と、あとは、一度は死にたくなるような人生経験、人生修行が必要であるということを、言っておきたいと思います。