● 「善と正義」の判断基準。〜 加筆版 〜 | たいやき社長、書く。

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明日は、聖なるクリスマスイブですので、この世的な「善と正義の判断基準」について述べたいと思います。

私が20代前半のころに、あまり態度の良くない、あまのじゃくの職場の同僚に、「そういう態度はよくない」と注意したところ、その人から、「何をもってして、善いといい、何をもってして悪いというのか。この世界に、これが善で、これが悪という定義、判断基準はあるのか。」と返され、返す言葉が見つからず、二の句が継げなかった記憶があります。

これは、じつに難しいことです。この世では、「善」を言うと、相対的に「悪」が生まれます。これが、この世のさだめです。善悪は、人間の考え方から出来たものです。そして、何をもってして善とし、何をもってして悪とするかは、人それぞれ千差万別です。そして、善悪については、「遠近」で考えると、よくわかります。

各人が二本の棒を持ち、片方は「近くに」、もう片方は「遠くに」置いてくださいと言ったら、二本の棒を置く位置は、各人全員がバラバラになるはずです。これだけで「善悪」の判断基準の難しさがわかると思います。

たとえば、アメリカのリンカン大統領の下に、南北戦争が起き、60万人以上の人間が命を落としたわけですが、その南北統一によって、アメリカの大発展があったのです。それを善とするのか、悪とするのかについては、人類には分からないのです。それこそ、神々の壮大な計画として、千年、万年という時間が経過してみないことには、本当のところはわからないというのが答えでしょう。

しかしながら、やはり〝 この世的な ″ 善と正義の判断基準というものを、至高神は与えています。それは、最終的には、「その考え方、やり方が、ずっと広がってゆくと、どうなるか。」というものです。この世の人間には、現在これしかないのです。

たとえば、もし、「いじめ」を善とし、いじめを行う人間がいるとしたら、ただいまの判断基準を、自身に当てはめてみるのです。「自分の、この考え方、やり方を、ずっと広げてゆくと、どうなるか」と。

いじめを善として、たとえば自分が、Aさんにいじめを行ったとします。それを、Aさんの知人であるBさんが知り、自分よりもはるかに強いBさんに、自分がいじめられることになった時、それでも自分は、いじめを善とするのかということです。

自分の善とすることを、ずっと広げていった先に、はたして、自分を含む、世界中の人々が、発展繁栄し、幸福になるのかどうか。これで、「いや、この考え方、このやり方を、広げていったら、いつかは自分が破滅することになる」というのであれば、やはりそれは善ではなく、悪でしょう。正義ではなく、不正義でしょう。

この世的な、善と正義の判断基準とは、「その考え方、そのやり方が、ずっと広がってゆくと、どうなるか」ということ、これ一点です。どうか、この判断基準を知ってください。そして、自分の善とするもの、自身が正義とするものを、この判断基準に当てはめてみてください。

そして、己が善とし正義とするものが、ずっとずっと、広がっていった先に、自己の破滅が、世界の破滅が待っているのであれば、それは悪であり、不正義なのですから、ただちに反省して、改めることです。

善と悪、正義と不正義の判断は、「遠近」と同じく、人それぞれ千差万別であり、まことに難しいことです。たとえば、関東の人は「大阪は遠い」と言うでしょうし、関西の人は「東京は遠い」と言うでしょう。この遠近を、善悪で考えると、関東には関東の善があり、関西には関西の善があるということになります。

ですから、真実の善と悪、真実の正義と不正義というものは、この世に生きる人間には、永遠に分からないといってよいでしょう。至高神の下に存在する、神々の間でさえも、いまだ、この答えは出ていないのです。この答えが出るまでには、まだまだ、何万年、何十万年とかかるでしょう。とにかく、すべてが「過ぎて」みなければ、分からないのです。

したがいまして、ただいま、唯一、この世の人間に至高神から与えられている、善と正義の判断基準は、「この考え方、このやり方が、ずっと広がってゆくと、どうなるか」ということ一点ですから、どうか、一人でも多くの人間が、まず、この判断基準を知ることです。そして、ただいま、自分が善とし、正義とするものが、はたして、この世的な善、この世的な正義に当てはまるのかどうかということを、冷静に、慎重に、理性と知性をもって、内省・内観していただきたいと思います。

そしてまた、判断基準も、大きなものとなる場合、たとえば経営のトップならば、「企業の発展繁栄のために、1万人のリストラをして、その悲しみに耐える人」や、国のトップであるならば、「より高次な幸福のために、歴史の結果がどう出るかまで考える人」など、「願っているものが何であるか。」「その判断の中に、私心はないか。」という点を忘れないことです。

以上、この世的な「善と正義の判断基準」という話をしました。どうか、よいクリスマスをお過ごしください。一足早いですが、メリークリスマス。聖なる日を。

  
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