物事には、必ず瑞相(前触れ)というものがある | くにゆきのブログ

くにゆきのブログ

今、自分が感動したこと、また知っていただきたいことを、主に記していこうと思います。

     (『人間革命』第10巻より編集)

           100

         〈険路〉 5

 

 御書の拝読を受けて、戸田は説き始めた。

 

 「この御書は、日蓮大聖人が身延にお入りになった翌年、四条金吾に与えられた御手紙であります。

 

 物事には、必ず瑞相というものがある。

 

 瑞相というのは、『兆し』『前触れ』のことです。天変があり、地夭(異変)があって、人びとは驚くけれども、それは瑞相であり、すべてわけがある

 

 釈尊が、法華経を説こうとした時、それまでの四十余年にはなかった大瑞がありました。

 

 これらの瑞相が起こったのは、法華経こそ元品の無明(衆生に本然に備わっている根本の迷いで、真理を明らかに見ることができない)を破る最高の教えであったからです。

 

 ・・・ 。

 

 私どもは、末代に生きております。悪人も、釈尊在世中とは比較にならないほど多い。質も悪い。したがって、その瑞相は、比較にならないほど大きなものが現れるというんです

 

 しかも、それは大悪として現れる。

 

 戦時中、創価学会は徹底的な弾圧を受けました。恩師・牧口常三郎先生は、『今こそ諌暁の秋(とき)である』と叫んで、遂には牢獄で死を迎えたのであります。

 

 そして日本国は、ひとたび亡びたのです。これも末法に正法が広宣流布することを示す、大瑞の一つと確信したいのであります」

 

 戸田は、御聖訓を通して、今、現実に折伏を実践している学会に、魔が競い起こっていることを、諄々と論ずるのであった。

 

 「このところ関西の地で、皆さん方が少しばかり熱心に法華経を説き、いささか活発に弘教活動をした。

 

 何一つ悪いことはしておりません。しかし、末法において法華経を説くのですから、釈尊在世以上の瑞相がなければならぬ。

 (つづく)