大阪での山本伸一の師弟不二のまれなる闘争 | くにゆきのブログ

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今、自分が感動したこと、また知っていただきたいことを、主に記していこうと思います。

     (『人間革命』第10巻より編集)

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         〈脈動〉 21

 

 次元は異なるが、広宣流布の実践のうえで、戸田城聖と山本伸一における師弟という不二の道もまた、今日の創価学会を形成発展させてきた大動脈であったことは、一点の疑いのなきところである

 

 ただ、昭和三十一年当時、草創期の激流のなかにあっては、この大動脈は、人目につかぬ底流に潜んでいるしかなかった

 

 大阪の激闘の成功は、この師弟不二の道の実践が、いかなるものであるかを表していたといってよい。

 

 七月、この選挙戦がひとまず終わった時、大阪地方区の大勝利に、全国の幹部という幹部は驚愕したが、驚愕は、ただの驚愕でしかなかった

 

 底流に潜んでいた大動脈に気づいた人は、皆無といってよかった。

 

 一人、戸田城聖だけが、彼の後継者の厳たる存在を確かめて、全候補の半分が敗北したにもかかわらず、心を慰めることができた。

 

 大阪地方区の勝利は、また全国の十条俊三の勝利をも、もたらしたといってよい。

 

 ”伸一は、勝ったではないか。してみれば、敗れた候補者たちも、勝利の可能性は十分にあったはずだ”

 

 もともと、山本伸一が担当することになる大阪地方区は、誰が考えても、常識的にいって敗北が当然であり、六人の候補者のなかで、最も勝利が至難なところであった。

 

 敗れて当たり前、ひょっとして勝てば、まれなる幸運というほかはあるまいとされていた。

 

 その大阪地方区が勝ち、”敗れるはずは、まずあるまい”と思われた三候補が落ちたのである。

 

 この時、もし大阪地方区も敗北していたとしたら、戸田の構想の確信は、大きく揺らいだにちがいない。

 

 誤算の衝撃から、戸田は、少なくとも再出発への徹底的な再検討に、身を責めさいなまれなければならなかったであろう。