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少し前書きました埼玉県越生町にある上田朝直によって造られた大築城。

その築城の目的はときがわ町にある慈光寺討伐でありました。



その都幾山慈光寺は、天武天皇の頃、僧慈訓が慈光老翁の依嘱を受け、千手観音堂を建て観音霊場として開基。


またその頃、伊豆に流された役小角が関東を歴遊した際、西蔵坊を設け修行道場としたとHPにあります。



そして、今注目の鎌倉殿、源頼朝の崇敬の念厚く、藤原泰衡追討のため愛染明王像をこの慈光寺に贈ったとか。




 以前の山行の記事ですが👇


越生梅林から大菅を抜けて行く道を慈光道といい、今は林道の様な形で残っていますが、この大菅には源頼朝が置いていったと言われる地蔵尊があります。


この大菅の地蔵のことは、下のブログに載っていますので、よかったらご覧ください。




さて、慈光寺の山行に戻ります🥾

慈光寺に上がる登り坂の参道の麓、西平の集落近くに「女人堂」があります👇


平安初期、女人信仰の御堂として慈光坂の途中に造られたものです。





西平集落から慈光寺までは長く蛇行した舗装道路の参道が続きますが、その途中にあるのが板碑群です👇






この板碑は鎌倉時代から室町時代に造られた供養塔で、大きな梵字は本尊を表し、石板は蓮座の上に乗っていると書かれています。




江戸時代の絵を見ると、ここには仁王門があり、女人禁制の結界となっていたのだそう。

女性は西側にある女人道を歩き、観音堂へ参ったと書かれています。

以前ここにあった仁王様は、今は焼失してありませんが、面白い伝説があるようです。

このことは、次の機会に書こうと思います✏️




開山宝塔👇



このお堂の中には、鑑真の弟子、慈光寺を開山した釈道忠の墓に建てた開山塔が納められていて、この塔は国内唯一の室町時代の木造宝塔であると書かれています。




釈迦堂跡👇




慈光寺には、学徒と行徒のニ派があり、行徒は一夏90日間回峰修行を行い、学徒はこの講堂に籠り論談決勤行を行ったとあります。




そして、この場所から眺めることができるのが、慈光寺を打つために建てられた越生の大築城がある城山です。(真ん中の突き出た山が城山だと思います)


お互いの山が間近に睨み合っていたのですね💦



観音堂からまた少し登った所にある臨済宗の霊山寺が開山した鎌倉時代には、七十五坊が瓦を連ね、壮大な寺院群が存在した都幾山慈光寺。


戦国時代には、僧兵を擁し近隣の城主との抗争に明け暮れ、太田道灌によって焼き討ちに会ったことで、栄華を誇った寺院は衰退を辿ることになります。

太田道灌は越生に生まれ、龍穏寺には墓がありますね。



いよいよ、慈光寺の山門に来ました👇




山門を潜ると正面が、都幾山慈光寺です👇




境内には、多羅葉の巨木があります👇



これは、天長年間(平安時代)に慈覚大師円仁が植えたもの。

多羅葉は葉の表面に棒などで字が書け、葉書の語源になったと書いてあります。



入り口に、このようなポスターが貼られていました👇

左側に慈光寺も載っていますね。

ときがわ町は、「鎌倉殿の13人」比企一族ゆかりの地ですもんねー😄




さぁ、もう少し登って観音堂へ向かいます🥾


って、えー‼️

とんでもない急斜の階段が現れたー😱


なんと❗️

一段の奥行きが25センチぐらいしかない〜

靴がはみ出るぞー💦



上から見るとこんな感じ👇

登りはまだしも、下りは超怖かった。




でも、ご安心ください。

横からなだらかで広い道を歩いてこれますよ♪




坂東三十三観音霊場第九番、慈光寺観音堂




天井画や彫刻は今は色褪せていますが、往時は美しいものだったのでしようね…



おゃ❓

天井からつる下げられた白馬があります👇


これは日光東照宮の眠り猫で有名な左甚五郎の作で、こちらについても面白い伝説がありますので、仁王様の話と一緒に書きたいと思います😁





さて、まだまだ多くの建造物がありますし、トレッキングコース🥾の記録もありますが、また後日アップしたいと思います。





ご覧になっていただき、ありがとうございます😊


それでは👋