AI時代の新「大きな政府」論 ダニエル・サスキンド著を読みました。

読みましたといっても今回は時間がなくて飛ばし飛ばしで読んだので丁寧に読めていませんが、色々あらすじ、要約、感想など。

 

機械によるオートメーション化(自動化)で、人間の行っている仕事が将来何割かなくなるよ、みたいな話はよく聞くところですが、実際にそのような経済的危機が来た場合、どのような世界が待っているのか。

 

今は労働を通して分配の問題を解決しているが、すべての人が労働に従事できなくなる(雇用の数が足りなくなる)世界において、どのように分配(不平等)と政治的支配力、生きがいの問題を解決していくのか、筆者なりの提案をしています。

 

 

 

所得分配国家、資本分配国家、労働者支援国家という3つの軸で展開される論。

 

最初に、技術革新が人間の働き方に影響してきた歴史を概観します。産業革命後のイギリスのラッダイト運動などからオートメーション不安ははるか昔からあったことを指摘し、杞憂の歴史と表現しますが、今回はケインズのいうところの余暇の時代に少しずつ近づいていることをデータで示しつつ、今盛んに議論されているのは仕事の雇用の「数」であり、「質」ではないと指摘します。

その仕事で得られる対価、働く時間、どのような作業なのか、やりがいはあるのか。そのような視点が抜け落ちているとし、技術革新が与える影響は、雇用の数(雇われるか失業状態か)だけでなく、その他多くの面を孕んだ問題だとします。

 

テクノロジーが人間の仕事を奪う、と語られますが、オートメーション化には2つの側面があります。

機会が人間の作業を奪う代替作用、そして人間の力を補完して、その仕事に就く人を増やす、「補完力」の側面です。

これを前提としながら、テクノロジーによる失業、テクノロジー失業について、タスクの侵食/摩擦的/構造的テクノロジー失業について論じています。

 

失業は、職を得たい人が得られない状態と定義されていますが、韓国などで一部起こっているように、高学歴の人がブルーカラー・ピンクカーラーの仕事に甘んじたくないと労働市場から撤退することもあり、そうしたスキルのミスマッチも起こり得ます。もちろん、テクノロジーにより、雇用が要求するスキルに到達できないというスキルのミスマッチもあり得ます。これが摩擦的テクノロジー失業の一形態。

するべき仕事はたくさんあるが、一部の人たちがその仕事をすることができない状況。

 

構造的テクノロジー失業は、筆者の主眼で、シンプルに、全員に行き渡るだけの仕事が存在しない状態です。

今まではテクノロジーの代替力が補完力を上回っていなかっただけで、将来的に代替力が上回るだろうというのが筆者の予測。

 

では、働き口がなくなり、全員が雇用される世界、つまり仕事の足りない世界では政府はどうふるまうべきなのか。

現在の社会では、「人的資本と従来型資本の所有に対して市場を通して見返りを与えるという形で、経済の反映を分け合って(p179)」います。テクノロジー失業ではこれが完全に破綻します。

 

分配の問題を解決するには、労働者への課税、従来型資本への課税、大企業への課税が挙げられます。

ここで大企業の課税について、法的な整備とともに言及されているのが会計士について。今の会計士の仕事はできるだけ徴税を逃れる方法を探すことだとされていますが、会計士の倫理観を変えることもひとつだとされています。弁護士や医師はその行動規範として、法的なことだけでなく、その精神を遵守することが広まり、成功していますが、会計士にも、その行動変容を促すことも可能なのではないかということ。

 

ここで所得分配国家の話になり、筆者が言及するのがベーシックインカム制度。しかし筆者が提案するのは、CBI, 条件付きベーシックインカムです(conditional basic income)。

 

ただ、ベーシックインカムをするとなると、誰に給付するのか、だれをコミュニティメンバーとしてカウントするかの問題が生じます。特に全員分の雇用がなくなり、働いている人、働いていない人が明確に分かれる世界になると尚更。

仕事で社会に寄与することができない場合は、例えば今の社会では明確に賃金、雇用の枠組みにない、教育や学問、文化、仲間へのケアなどを通じた貢献で、ベーシックインカムの受給者要件とすることを筆者は提案しています。

 

一方で、多様性がある社会だと国家の公助がトレードオフで減るという研究結果をひき、アメリカにおける公的扶助が少ない理由について、

マイノリティへの扶助にマジョリティが賛同したがらないという説を紹介しています。このようにある種排他的なコミュニティを形成することにより、受給者要件(コミュニティに誰が所属するか)を解決する道もあるとは書いていますが、分配の正義的観点からすると推奨はされないでしょう。(これは私見)

 

ここで、イランの2010年の政府の例や、アラスカ永久凍土基金などを例示し、無条件でのベーシックインカムが労働への逆インセンティブが働くというエビデンスはないという指摘が個人的に驚きというか知らなくてびっくりしました。大抵BIの反対論者はこの点を指摘するので。しかし宝くじや相続など、一定のまとまったお金が入ると労働から離脱する人が多いのは事実らしい。

 

続いて資本分配国家。今まで労働を通して、皆が社会に貢献しているという社会的連帯感をもとに社会は構築されていましたが、そうでない社会になるにあたり、非経済的条件に基づき、連帯感を醸成していく社会を、徴税と所得の分配を通して行っていくことが政府には求められるとしてきました。

 

所得自体ではなく、資本分配とは、国家が市民に変わり、所得の基盤自体を与える案です。

例えば政府が市民の代わりにファンドを所有する。株は誰でも買えますが、実際低所得者間での所有率は低いものです。そうした不平等を是正する一環として、市民系ファンドが考えられます。すでにいくつかの国では実践例があるらしい。

 

社会主義国のような印象ですが、国家が企業の所有権を一部所有することと、企業への支配権をもつというところが大きく異なります。というわけで、筆者はこれを「資本分配国家」としています。

 

三つ目、労働者支援国家として、労働組合の弱体化への対処、企業へ、労働者の補完をするようなテクノロジーの開発を促す圧力をかけることなどが書かれています。

 

最後に、雇用が失われることで、生きがいが失われることの重大性について考察されています。

マックス・ウェーバーが考察したところによると、労働はプロテスタントの懺悔に変わる救済の行動として位置付けられます。

ただ、労働=生きがいがずっとそうだったかというとそうではなく、古代ギリシャやエジプトでは労働は下劣なものと見做されていたし、種老民族は現在の平均的なイギリス人よりはるかに短い時間しか働いていなかったという推定もあります。

 

要するに、労働は宗教に変わる民衆のアヘンであると筆者はいい、政府が余暇政策に介入すべきだと言います。教育では、よき労働者になるための教育が十何年も行われますが、これを無職の状態でも時間を具体的にどう使うかについてシフトすべきだと言います。ちょっと行き過ぎな感もある。

 

余暇を見直し、今散発的に行われている余暇への支援(美術館の無料施策など。日本では有料だが、、、)をもっと体系だったものにしていくことが重要だと言います。これをすることにより、今値札がつかない活動への見直しにも繋がり、上記で書いたCBIの要件も相待って、今まで労働市場主義的に見落とされていたケアの領域や文化的活動の掬い上げにもつながるのではと締められています。

 

テクノロジー失業について考えたことはあれど、労働が人口の需要をカバーできなくなった社会に起こることについてじっくり考えたことはなかったので、政府のあり方などについての一提言を読み、私の中での社会主義的考えへの忌避感と、今の歪な資本主義への違和感への解像度が上がった感じがします。政府がすべてを掌握する必要はなく、たとえば資本分配という考え方があるのだなと。

 

自分はスキルはあるのか謎ですが、低賃金の労働者に甘んじている部分はありますので、筆者のいう、上潮で上昇するすべての船、の船以前の問題の労働者である自覚は多少はあります。そういういち労働者でも、これからの政府のあり方や社会のあり方について、自分なりの見解はもっていたいなと思いました。お読みの方は感想聞かせてもらえると嬉しいです。