ある時から、さんざん

親から傷つけられてきた、

それでもこの上なく、自分は

親を愛し続けてきたと自覚していた。

子どもだから、

自分は当然親から愛されて、

守られてきたと思っていた。

ところがそうではなくて、

私を目掛けて振りかざす手は

お前はなぜ、私をこき使う!

お前はなぜ私を苦しめる!と、

苛立ちにまかせ、

感情の制御ができない

粗暴な人格が

恨みがましく

八つ当たりしているのだと、

子どもながらにわかってしまう瞬間があった。

親なんだから、

最低限、他人からは

守ってくれているだろうと

根拠なく信じ込んでいるおもいが、

母親が脳梗塞になって、

口がきけなくなり、

実はきょうだいには

私の悪口をさんざんふきこんでいたと

わかった瞬間に、

この上なく傷ついた。

中傷を信じ込んでいる親戚の、

ひややかな目と、批判を浴びながら

私は、もうどこにも行き着く場所がないんだと

観念した。

虐待されて

うつ病を患った二十代の頃の、

どこかに飛び出して行きたくなる

激しい衝動に比べて

それは、静かだけれど、

深く心に刺さった。

大人は完全だと固く信じ込んできた

子供時代の自分の純粋さを

今では、それでいいんだよと

言ってあげられる。

幼く、無知で、孤独で、

誰かに頼らざるを得ないのが

子どもなんだから、

傷つきながらも

お前はお前のままで、

神様の世界の住人たる資格が

充分にあるんだよと語りかける。

信仰を得ることを知り、

不動明王に語りかけて、

涙と共に、人間の狡さや弱さや

儚さを嘆きながら、

行きつく場所が自分にはないと泣くと、

私の中に入ってきなさいと

不動明王は体の奥の深い暗がりの

未知の世界に私を包み込んだ。

所詮は人間。

人間だからこそ、

愚かしく、狂気に満ちた

不穏な体験の数々を見せつけてくれる。

そんな境遇を選んだのも自分。

あの親を選んで生まれたのも自分。

名も知れぬ人たちが、

同じような失望を味わい、

同じような回復の途上で絶望し、

それでもなお、

自分以外の誰かの苦しみを

嘆きを、絶望を、

克服しようとさせる。

きょうだいでもなく、

友達ですらないのに、

その清々しくも力に満ち、

光を目掛けて、伸びていこうとする

手を伸ばし、精一杯上を向こうとする力を

信仰と呼びたい。

絶望に苦しむ今日も、

目の前にいないけれど、

確実に生きている、そんな人たち。

そして、信仰の力に支えられる。