昔、息子がお世話になったこともある近所の碁会所の囲碁初心者教室ひょんなことから行ってみることになった。これも碁縁?

 

ずっと息子がやっているのを面白そうな世界だなーと思いつつ遠目に見ていただけだった。ただ囲碁棋士の話や考え方が好きで読んではきて

(私の尊敬する棋士は呉清源先生)自分がいざ盤面に向かったらはてさてどうなるのか、、

 

行く前に「やってはいけないことは?」と息子に聞いてみた。

 

*はがしをしないこと

*碁笥に手を突っ込んでジャラジャラしないこと

 

それだけで教室に向かった。

お仲間は、先月から始めたばかりの若いPさん(コンピューターサイエンスをやってるPD)とTさん(70代から囲碁を始めてベテランの御婦人)。Tさんは息子をご存知で懐かしがってくれた。

 

簡単に盤面の名称の説明があった後

 

*2眼作ること

*生き、死に、当たり

*マナー(打つ場所が決まってから石を持つ)

 

などを教わって、すぐにPさんと2子9路番で実戦開始となった。実践重視らしい。

 

9路盤、広い、広すぎる。まずどこに打っていけばいいかわからずただただ怖い。荒野に放たれた小動物がブルブル震えているという気分だ。そこで席主のNさんに助けを求めると、

 

「領地を作る感覚で。白石はこの辺を囲って領地にしたいと思っています。もしこの辺を地にしたければこのあたりとかに打ってみるといいですよ」

 

その後どうしたら領地の形になるのかわからないなりに打っていき、石がだいぶ埋まってきたら、今度は終わり方がわからない。終局の形というものがあるのだけは、耳学問で知っているので、馬鹿みたいに打ち込むのは失礼だからやめたいのだが、どこまで行ったらいいのか皆目わからない。そこでまたNさんに助けを求める、

 

「打てそうな場所がなくなったら終わりです。どちらの領地でもない場所がありますね」

 

それどこ??わからない。教えてもらって、打つ。

 

「領地が決まって打つところがないとなって、双方がパスをしたら終局です」

 

そこから整地の方法、地の数え方を教わって私の記念すべき第一局が終わった。

 

その後Pさんともう一局、Tさんとの対局ではいつの間にか劫(こう)をTさんが作ってくださり、劫だてというものを初めて体験した。

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<感想>

実際に対局をやってみて、私は戦いたくない、なるべく平和裡に事を進めたいタイプだと実感した。そんな気弱な人間が、どういうメンタルで碁盤に向かえばいいのか?

 

ある程度の指針が欲しい(指針がない、自由なのは怖い)

 

そんな風に思っていると、今朝こんな言葉に出くわした。

 

横尾忠則が、絵を描くときのメンタルの状態について、今自分が抱えている現実の問題にとらわれたまま描くのではいけない、と語っている。 

「自分のことも、家族のことも、いろんなことも、全部どうでもよくなっているか、あるいは忘れているといいんです。 いろんな問題を抱えたまま絵を描いていても、それを抱えたような絵しかできないからね。」 

現実の問題を保留して絵を描く。だが、そうすると、その「絵を描くという自由」が現実の問題を解きほぐしていくということがでてくる。 

「『絵の中で自由にできれば、実際の問題に対しても自由にできる』これは、できそうな気がするわけ。」+M labratory

 

実は打ちながら、これは真っ白なキャンバスに絵を描くのに似ているなと思ったのだ。囲碁は対局相手がいるから、自分の思いのままというわけでもない。一方で自由の怖さも盤面に感じたのだけれど、

 

「絵を描くという自由」が現実の問題を解きほぐしていく

     ⇩

「思いのままの場所に石を打てるという自由」が現実の問題を解きほぐしていく

 

このスタンスなら、私が囲碁をやる意味を見出していけそうな気がした。自分が自由を獲得するために囲碁をする。

 

「囲碁は基本戦いなんだけどな」という息子からのアドバイスは以下のようなものだった。

 

(平和に行きたいに対して)

「相手を意識せず、形成判断をしていくようにしたら。

 1目差で勝つことを目指すんだよ」

 

(自由の怖さに対して)

「ここ打ったらどうなるだろうという好奇心を大事に」

「棋譜並べをやったらいいんじゃないかな」

 

形成判断に明るく、棋譜並べに良さそうな人は誰?と聞くと『申 眞諝』

これはハードル高すぎですので、

教室は対面での実践として、私はまずはここから入ります。

 

*天才棋士呉清源の回想

 

*呉清源〜極みの棋譜(映画)2007