ひとが行動するのには、目的がある。
そして、そこには源がある。
私の父は、人に喜んでもらうことが喜びのひと。
なので、老後の今、畑で野菜を作り、それを自分たちで食べるだけでなく周りのひとに分ける。
自然薯ほりをしても、そばを打っても、魚を釣っても、やることは同様。分配・・・
そうすると、みなさんが「おいしかった」とか「ありがとう」
と言ってくれる。
こうして誰かに喜んでもらえる喜びを知っているから、父はもうやめられないのだ
(ちなみに、これが度を過ぎると自分たちの分が無くなったり、出来栄えが??のものだけになり、母が不満をもらすという弊害はある)
畑に今できるイチゴ
昨日は、孫と一緒に畑へ
すると、ちょうどお隣の畑の方もいらっしゃって、イチゴのできをほめていただいていた。コツも聞かれたりして・・・。
そうして、立ち話をしていた父が言ったのは、手間がかかるけど、孫がいるからやるのだと(孫が喜ぶからできると)。
どんなに手間をかけてもおいしいイチゴをつくる。それは、孫の喜ぶ姿、笑顔で食べる姿が見たいから。
それを見れることや、それを見たいという想いは、生きる喜びであり、エネルギーになる。
ひとは、源(感情)というエンジンがあると、動く。
そんなことを、当たり前のことを、あらためて感じた日曜でした・・・