1(承前)
「杉村さん、と言いましたね。この子は怖がってます。聴取ならここでもできるでしょう?」
柴山が、ワタルを守るように身体を割り込ませる。
「込み入った質問もありますので無理です。ケア専門の人員もおりますし、署の方でお願いしたい」
「では、私も同行します。私はこの子の保護者です」
「ご協力ありがとうございます。しかし、必要ありません。実は、既にワタルくんの祖父母に来ていただいてましてね。署の方で待ってらっしゃるんですよ」
「日向教授は地方出身でらっしゃいます。ご両親はどちらからいらっしゃいましたか?」
「……」
「あんた、警察の人だよな?」
「捜査一課の杉村です」
「確認するからちょっと待っててくれ」
そう言って、携帯を取り出す柴山の首筋を、杉村と名乗る男が殴打する。
「来い!」
ワタルの手を掴もうと手を伸ばす杉村の腰に、柴山がタックルし、そのまま壁にぶち当たる。衝撃で、棚いっぱいに詰め込まれた書籍やファイル類が、バサバサと床に落ちる。線が細く見える柴山だが、学生時代はラグビー部に所属しており、見かけからは想像できない筋力と闘争心を秘めている。
「ワタルくん、逃げるんだ!!」
素早くリュックを背負うと、脱兎のごとく部屋を飛び出す。柴山のことが気になるが、「ごめん」とつぶやくと唇を噛んで頭から振り払う。
突き当たりの角から、待ち構えていたカニのような体躯の男が現れる。子供一人と高をくくっているのか、盤広のあばた顔に薄笑いを浮かべている。
フェイントをかけて、左脇をすり抜けようとするが、あっけなく太い腕に捉えられる。カニ男は、明らかに嗜虐的な意図を込めて、必要以上に強い力でワタルの細い身体を締め付ける。
「へっ、ガキが。手間かけさせやがって」
少し訛りのある日本語を、ニラ臭い息とともに吐き出す。
ワタルのリュックから、触手のような銀色のパイプがゆらゆらと伸びる。銀にきらめく先端が、カニ男の首筋に触れると、バチバチッっと音を立てて青白い電光が炸裂する。
白目をむいたカニ男は、ゴッっと不気味な音を立てて、頭からリノリウムの床に崩れ落ちる。
「ワタルくん、ワタルくん、大丈夫??」
リュックの内部に、ダルマ状に丸く赤い何かが収められているのが見える。顔の中央部でキョロキョロと動く、愛らしい円い瞳を、心配そうにひそめている。
「ノーラ、ありがとう。助かった」
まだビリビリ痺れている、男に掴まれた部分をさすりながら、ワタルがつぶやく。
「ワタルくん、逃げないと。あいつ、追ってくるよ」
「わかった」
完全に意識を失っているカニ男の身体を飛び越え、ワタルは走り出す。ノーラの電撃を食らうと、数時間は起き上がれない。
校舎を出て、裏庭に向かう。柴山の抵抗はすぐに排除されたようで、目の端に杉村と名乗った男が追ってくるのを捉える。
抜け道を通ろうとして選択を誤り、校舎と校舎の間の袋小路に入ってしまう。ここは用具置き場になっており、しばらく身を隠すことはできるが、本気で捜索されたらすぐに見つかってしまうだろう。
立てかけられたベニア板の下に潜って、身体をすくめる。
じりっ、じりっと、袋小路に侵入した男の足音が響いてくる。
「出てこい! いるのは分かってるんだ」
ひそめた声でそう言うと、わざと大きな音を立てながら、乱暴な手際で、積み上げられた木材や肥料をどかしてゆく。
「助けて~! 誰か助けて~!!」
校舎の裏側で、ワタルの大きな叫び声が響く。
つられて走り出す杉村。叫び声は、ワタルの声音をコピーしたノーラの仕業だった。周囲を窺いながら物凄い形相で走って行く杉村を、ノーラはベンチの足元に隠れて注視している。
杉村と反対方向にワタルは駈け出す。すっかり暗くなった裏庭の樹々を抜けて、裏門を潜って住宅街に逃げ込む。
薄暗い路地を、赤く丸いボディから三つの車輪を出したノーラが進んでゆく。
本気を出すと人が走る程度の速度は出せるのだが、見咎められると面倒なことになるので、往来を気にしながらゆっくりと進む。人影をキャッチすると、電柱やブロック塀の陰に潜んで、やり過ごす。手足を引っ込めて電飾を消すと、彼はボールか何かのようにしか見えない。
誰も居ないことを確認してから公園に入り、植え込みに近寄ると、触手状の手を枝に引っ掛けて浮き上がり、ストンとワタルの横に降り立つ。
ワタルは、植え込みの陰に隠れて、膝を抱えた姿勢で泣いていた。
「ワタルくん……」
ノーラは、銀色の手を伸ばすと、慰めるようにワタルの頭の上でトントンする。
彼、ノーラは、父さんの“ラボ”で産み出された人工知能である。現在は「コア」のある小さなボディに収まっているが、“ラボ”のメインコンピュータにリンクすると、ニンゲンをはるかに超える各方面にわたる能力を発揮することができる。
彼の「意識」が誕生し、ディスプレイごしに「会話」ができるようになってから3年弱、今やワタルにとって、どんな大人よりも頼り甲斐のある、アドバイザーであり、かけがえのない友人になっている。ノーラがいなかったら、父との非業の別れから三日間、決して独りで耐えきることはできなかったろう。
「ねえ、ノーラ、なんで警察に行っちゃだめなの? あいつら、ニセ警官なんでしょ? 身分を偽るのは罪なんだよね? きっと警察に行ったら、捕まえてくれるよ」
少し気持ちが落ち着いてから、ワタルが問いかける。
「今回の事件、警察はまだ把握してないみたいなんだ。犯人たちによって、巧妙に隠されている。今の時点で助けを求めても、本当の意味で力になってくれる可能性は低い。それに……」
「それに?」
「可能性の一つだけど、奴らの組織、警察にも影響を及ぼせるほどの力があるかも知れないんだ」
「影響って? 事件をなかったことにできるってこと? ぼくも引き渡されちゃうってこと?」
「なかったことには、でき得るかも知れない」
「何なの?! いったいあいつら、何者なの?! 誰が…誰が父さんにあんなことを……」そう言って、ワタルは右手で太ももをバシッと叩く。
「ごめん。それはまだ分からない……」
本当は、おおよその真相は把握しているのだが、パラレルに展開する意識の一つが、まだワタルには告げない方が良いと判断している。
「ぼく、どうすれば良いの? 柴山さんとこもダメだったし、おじいちゃんとこも危ないっていうし、警察もダメなんだったらもう行くとこないじゃん……」
「一人、力になってくれそうな人がいるんだ」ノーラは希望を込めたつぶらな瞳でワタルを見上げる。
「ワタルくん、教授の最後のメール、覚えてる?」
「“エルを探せ”?」
「うん、その“エル”に関して、教授にコンタクトを取っていた人物がいるんだ」
ノーラは、許可された範囲においてだが、日向教授、ワタル、両者がやりとりしたメール、閲覧したサイト履歴に、全てアクセスすることができる。おそらく、本人たちよりも深く、効率的に、それぞれの案件を把握できている。
「“エル”ってなんなの?」
「それは分からない。でも、“エル”と呼ばれるあるロボット体のシステムに関して、人工知能の権威である教授に協力を求めていて、それに教授もすごく興味を惹かれてたみたいなんだ」
「父さんが?」
「うん」
「それってどんな人? 信用できるの?」
「マサチューセッツ工科大学を出たロボット工学の権威で、数え切れないパテントを持ってる超天才。主に海外で活動していて、日本にはあまりしがらみもなさそう。訪ねてみる価値はあるよ」