カルチャースタディーズ研究所からのお知らせ -2ページ目

東京人 書評連載 最終回 福田恒存

 意外に聞こえるかもしれないが、私は福田恒存の信奉者である。信奉者という言い方は適切でないかもしれないが、相当影響を受けている。
 しかしそもそもは、福田と私の「思想」は----私ごときにも「思想」があるとして----相反するものだった。やや左翼系の家庭に育ち、朝日新聞で「進歩的文化人」的な言説を読んで育ち、平和主義、護憲主義だった私にとって福田は論駁すべき対象だった。私の学生時代、福田は日曜朝のフジテレビで「世相を斬る!」という対談番組を持っていて、それを毎週見ていた私は、なんて意地の悪い男だろうと思いながら、しかしなぜか毎週番組を見ていたのである。
 この男を言い負かしてやろうと、私は中公文庫の『人間・この劇的なるもの』や新潮社の『福田恒存評論集』を買いあさり、読み始めた。なぜ平和が悪い? なぜ平和憲法が悪い? 福田の論理の隙を探し、そこを突いて攻撃しようと思った。
 しかし福田の文章には、剣豪の構えのように、つけいる隙がなかった。それどころか、その構え自体が、背筋が伸びて、凛として美しかった。また、『人間・この劇的なるもの』の表紙カバーに付けられた副題の顔写真を見て、この男は信用できると直観した。小林秀雄が「良心を持った鳥」と呼んだ福田らしい、嘘のない顔だった。私は次第に福田に惹かれていった。ミイラ取りがミイラになったのだ。本稿を書くために評論集を読み返しても、わくわくしてしまう。
 『福田恒存 思想の<かたち>』は、東京工業大学の博士論文をほぼそのままの形で出版したものである。著者の浜崎洋介は1977年生まれ。私が『世相を斬る!』を見ていた頃の生まれだから、福田の現役の姿は見たことがないだろう。そういえば、『第三文明』で「現代の古典特集」をしたとき、選者の一人であった私は『人間・この劇的なるもの』を十冊のうちの一冊として選んだのだが、もう一人、同書を選んだのが若き政治学者、中島岳志だった。中島は75年生まれ。浜崎と同世代である。こうした若い世代が福田を研究したり、惹かれたりすること自体が私には興味深い現象である。一九八〇年代後半以降、福田の言説が再評価されるようになってきたが、浜崎自身が言うように、「その背景には、冷戦の雪解けムードのなか」「イデオロギー規定的な言説(マルクス主義、進歩主義、近代主義)が次第に後退するといった時代の後押しがあったことも確かであ」り、かつては「ペストのごとく」嫌われた福田を若い世代は偏見なく読むことができるようになったのであろう。
 偏見なく読めば、孫ほどの世代をも惹きつける福田の魅力とは何か。それはおそらく、国家、社会、時代、あるいは「空気」というものに対して個人はいかに立ち向かうべきかということを、福田が身をもって教えてくれるからであろう。逆説的に言えば、今という時代は個人が空中に放り出されたような時代なのである。地域社会、歴史、伝統、会社、家族から切り離され、あるいは経済成長や近代化という国民共通の目標をなくし、グローバリゼーションが猛威をふるうことで日本という国の固有性すら危ぶまれているような時代の中で、木の葉のように舞っているのが現代人だ。それでもなお、人間が、空気に流されず、時代におもねることなく、個人を確立できるか、その問題を多くの人々が共有しているのが現代なのであり、そのとき福田の「生き方」「歩き方」が大きな指針となるのである。
 なお、同書の膨大な「注」は、それだけを読んでも面白いものである。「附合ふといふ事」などの「比較的短く肩の力が抜けたエッセイ」や「福田の『人間味』ある人物論の方にこそ『福田の心がもっとも感じられる』」という一文を「注」に見つけ、我が意を得た。福田を読み込み、すばらしい研究を成し遂げた浜崎に拍手を送りたい。
 福田のような「保守」の思想は、西尾幹二、西部邁、佐伯啓思、あるいは小林よしのりらに、もちろん形を変えつつだが、受け継がれている。中でも佐伯の『反・幸福論』は一読に値するだろう。「日本の伝統的精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました。むしろ幸福であることを否定するようなところがありました。少なくとも、現世的で世俗的で利己的な幸福を捨てるところに真の幸せがある、というような思考がありました」と書くあたりは福田的と言えようか。
 福田の文章を浜崎は引用している。「将来、幸福になるかどうかわからない、また『よりよき生活』が訪れるかどうかわからない、が、自分はこうしたいし、こういふ流儀で生きてきたのだから、この道を採るといふ生き方があるはずです。いはば自分の生活や行動に筋道をたてようとし、そのために過ちを犯しても、『不幸』になつても、それはやむをえぬといふことです。さういふ生きかたは、私たちの親の世代までには、どんな平凡人のうちにも、わずかながら残つておりました。この自分の流儀と自分の欲望とが、人々に自信を与えてゐたのです。」
 一見古めかしい幸福論だが、こうした「反・幸福感」は、実はこれから「衰退」する日本を生きていかねばならない浜崎、中島らの世代には自然に身についているように私には思える。その点については拙著『第四の消費』で触れたので、お読みいただければ幸いである。

東京人連載 中央線がなかった時代 3


 中央線の前身は甲武鉄道。明治二二年に新宿-立川間に開業した。だが一体どうしてこんなにまっすぐになったのかと誰でも不思議に思う。たしかな資料はないようだが、甲武鉄道の重役が、地図を睨んでえいやっと線を引いたらしい。
 だが、重役がえいやっと線を引いたのには理由がある。何も最初からまっすぐな鉄道にするつもりはなかったのだ。甲武鉄道としては、中央線を新宿から青梅街道上か甲州街道上に、吉祥寺あたりでは五日市街道上に敷設するつもりだったらしい。
 ところが地元の大反対にあった。なぜか。同じ鉄道でも今と昔は違う。甲武鉄道敷設当初の車両はもちろん蒸気機関車である。煙がもくもく出て、煤をあたりにまき散らす。蒸気機関車も、なくなってみるとノスタルジーの対象だが、登場した頃は、近代工業社会の産み出した怪物のように思われたはずである。言わば「走る公害」。そんなものが街道を走ってもらっては困る、と住人たちは考え、街道沿いの集落から離れた地域に鉄道が敷かれたのだ。(写真)
 中央線ができて、中野、荻窪、吉祥寺、三鷹などの駅ができる。それから大正一一年に、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪の駅ができる。直後に関東大震災が起こり、東京市の旧市街地で被災した人々が新開地であった中野から三鷹あたりまでの西郊に移り住む。杉並村の人口は大正九年から昭和五年の一〇年間で七倍近くに増えた。戦後も人口増加は続き、いわゆる「中央線文化」が形成されていった。
 だがそれ以前、大正時代前半までは、中央線沿線にはほとんど何もなかったのである。武蔵野の雑木林、田んぼや畑などが広がるだけだったのだ(写真三浦資料から)。その頃の中心は青梅街道や五日市街道などの、江戸時代以来の街道沿いだったのである。考えてみれば当然のことである。しかし現在の中央線があまりにも堂々と東京都を横断しているので、そのことに私たちは気づけなくなっているのである。

 昔の人々は、新宿追分を発つと、青梅街道を歩いて淀橋を渡った(淀橋の地名の由来は後述)。江戸時代の神田川は広かった。淀橋あたりでも、細かく蛇行しており、川原には葦が茂り、流域面積はかなり大きかったのだ(江戸図会、昔の地図入れる)。
 新宿追分から淀橋までは、神田川に向かっているので当然ながら道は坂を下がっていく。そして神田川を渡ると、けっこう急な坂を上る。中野坂上という丸ノ内線の駅名は嘘ではない。坂を上った先には鍋屋横丁。後述する堀之内の妙法寺に参詣する道であり、往時は水茶屋、料亭などが建ち並び、大変に栄えた。鍋屋の名も料亭の一つから取られている。
 鍋屋横丁を西南に進んでいくと妙法寺の南の参道に至るが、さらに行くと杉並区堀之内の熊野神社、またさらにその先に大宮八幡がある。堀之内の熊野神社は善福寺川の北側の崖線の上にあり(写真)、近くには向山遺跡がある。善福寺川沿いには方南峰遺跡、済美台遺跡、松の木遺跡などもあり、川に沿った崖線凱旋の上が縄文人、弥生人にとっての良好な「住まい」であったことがわかる。
 妙法寺は江戸時代から厄除けで有名で、多くの人々が「祖師参り」と称して参拝に訪れた。このように中野から杉並にかけては、かつては青梅街道が軸であり、そこから枝分かれした参道沿いにまちが栄えていたのである。

 これらの地域について詳述する前に、中央線のもう一つの謎(と私が勝手に思っている)について書いておく。中央線はなぜ新宿から東中野までは中央線が弧を描いているのか、という謎である。
 この謎は、実際に現地を歩いてみると氷解する。新宿駅西口は一見すると平べったい地形だが、先述したように神田川に向かっては坂を下る。だが、新宿駅から西北に向かっては、かつては柏木という地名であり、わずかながら坂を上るのである。蜀江坂という立派な坂があるくらいで、坂の上には山の手の住宅地が広がっている。(写真)
 私が歩いたルートは、小滝橋通りの西新宿保健センター前の交差点から西北に分岐する道である。この道を進んでいくと、次第に台地を登り、神田川に至るのだが、この道がまさに中央線と並行しているのである。いや、中央線がこの道に並行してつくられたのだ。
 この道の東側、北側はまた坂を下る。坂の下に沿うようにして中央線がカーブしているのである。そのことは特に現・北新宿三丁目にある鎧神社のさらに北側を歩くとよく実感できる。(写真)
 考えてみれば、御茶ノ水駅から四谷駅にかけても、中央線は崖の下に沿って走っている。窓からは神田川を見下ろすから、私たちはそのことを実感できる。しかし新宿駅から東中野駅までは高架であり、電車から見ると柏木の台地も平べったくしか見えないために、私たちは中央線がやはりここでも崖の下に沿って走っていることに気づかないのである。

 坂を下って神田川沿いに北上してみよう。道の西側は相当な断崖になっている。しばらく歩いてから断崖の上に昇る。昇るには階段を使うしかない。それほど急なのである。(写真)階段を上ると、かつて華洲園と呼ばれた高級住宅地がある。ここは江戸時代には将軍が鷹狩りに来て休憩した御立場があった場所である。たしかに崖の上から見下ろすと、今はマンションがたくさん建っているので見晴らしが悪いが、かつては眼下に神田川、遠くにはおそらく江戸城とその城下を一望できたに違いないと思わせる。(眺望写真)
 御立場には中野区教育委員会による解説看板が立っており、それによるとこの御立場は「中山御立場」と言われ、旗本の中山主馬の屋敷があったので、そう呼ばれた。中野の堀江家文書によると、十代将軍家治は、早朝半蔵門を出発し、四谷、淀橋を渡り、青梅街道から御囲跡御立場に着き、雉狩りをしたあと、また青梅街道に戻り、雑司ヶ谷道を通り、上落合の寺で食事を済ませ、中山御立場で再び雉狩りをして、小滝橋を渡り高田馬場、神楽坂から田安門へ帰城したという。御囲跡御立場とは、後述する中野桃園町の御立場である。また、中野への鷹狩りは、家光、吉宗、家斉らも来たという。

 華洲園を後にして、再び東中野駅方面に向かい、そのまま駅南を南下する。そのあたりは旧町名を川添といい、さらに大久保通りを越えると旧町名・小淀である。神田川に沿って元本郷通りという細い道がある。このあたりは現町名が中野区中央一丁目だが、こここそが中野村の中心、本郷なのである。
 元本郷通りから崖の上に登る斜面には幕末の剣豪、北辰一刀流の山岡鉄舟邸跡地がある。また台地の上には、三井信託が戦前に開発分譲した小淀住宅地もあるなど、良好な住宅地が広がっている。
 そこからさらに南下して、青梅街道を渡ると、明治四二年の地図によれば鈴木牧場という牧場があった場所がある。鈴木はこの土地の地主の名であろう。今は牧場を偲ばせるものはなにもないが、拙著『スカイツリー東京下町散歩』にも書いたように、戦前の東京には乳牛の牧場が多くがあった。生活の洋風化に併せて牛乳を飲む習慣が広がっていたためだが、特に足立区には牧場が多く、三〇の牧場があり九五〇頭の乳業が飼われていたという。そのひとつ和田牧場は、御徒町方面から、より広い土地を求めて移転したものだが、和田家の娘のひとりが女優の木暮美智代なのだそうだ。かつ、木暮美智代が妹と神楽坂に開いた旅館が小説家が缶詰になることで有名な旅館だというから面白い。
 話がそれたが、中野、杉並にもいくつか牧場があったようであり、それと関係があるのか、中野区本町四丁目には社団法人日本ホルスタイン登録協会の「ホルスタイン会館」がある。また、先述した西新宿から柏木へ至る道にも、小島屋乳業製菓という会社の本社ビルが建っている。ビルは戦前のものらしく、スクラッチタイルの外壁のモダンなものである。

以下割愛

東京人 新連載 中央線がなかったら 2 新宿から中野 抄録

中央線連載2 中野

三浦展

「丸い緑の山手線、真ん中通るは中央線」というヨドバシカメラのテーマソングは誰でも知っている。私のような地方出身者が東京に初めて来たときに、最初にテレビでおぼえる歌の一つかも知れない。
 しかし地図をよく見ると、山手線は決して丸くはない。中央線は真ん中をとっているが、S字に蛇行している。新宿を過ぎても蛇行して、東中野から突如まっすぐになる。そのまっすぐさが普通ではない。ドーンと立川まで二〇キロ、ずーーっとまっすぐである。しかも真東から真西に、東京都を文字通り横断している。俺は中央線だ! 文句あっか! と言っているように見える。少しずつ曲がりながら、西南へ、西北へと走っている他の鉄道を寄せ付けない。迫力のある一直線。それが中央線だ。
 中央線の前進は甲武鉄道。明治二二年に新宿-立川間に開業した。だが一体どうしてこんなにまっすぐになったのか。たしかな資料はないようだが、甲武鉄道の重役が、地図を睨んでえいやっと線を引いたらしい。
 だが、重役がえいやっと線を引いたのには理由がある。何も最初からまっすぐな鉄道にするつもりはなかったのだ。甲武鉄道としては、中央線を新宿から青梅街道上か甲州街道上に、吉祥寺あたりでは五日市街道上に敷設するつもりだったらしい。たしかにそれは合理的だ。
 ところが地元の大反対にあった。なぜか。同じ鉄道でも今と昔は違う。今の中央線は新車両になり、すっかり騒音も震動も和らぎ、すーっとなめらかに走っている。新車両になる前は、オレンジ色の四角い車両が、重そうに走っていた。東京に出てきて以来、あのちょっと鈍重そうな車両になれてきた私としては、新車両の軽やかさが物足りなかった。おそらくそう感じた鉄ちゃん、中央線マニアたちは多いだろう。
 だが、沿線住民の生活環境としては、今の車両のほうがよい。静かだからだ。まして甲武鉄道の敷設当初の車両はもちろん蒸気機関車である。煙がもくもく出て、煤をあたりにまき散らす。蒸気機関車も、なくなってみるとノスタルジーの対象だが、登場した頃は、近代工業社会の産み出した怪物のように思われたはずである。言わば「走る公害」。そんなものが青梅街道を走ってもらっては困る、と住人たちは考え、青梅街道や甲州街道沿いの集落から離れた地域に鉄道が敷かれたのだ。(写真)
 今では、中野区、杉並区、武蔵野市の中心というと、誰もが中央線沿線を考えるだろう。中野ブロードウエイも、高円寺純情商店街も、阿佐ヶ谷パール商店街も、吉祥寺のパルコも丸井も、焼き鳥のいせやも、みんな中央線沿線にあるじゃないか。それ以外に中野、杉並、武蔵野の中心があるのかい?と、普通は思うだろう。
 しかし、中央線沿線がそれらの地域の顔になったのは、当然だが中央線ができてからである。中央線ができて、まず中野、荻窪、吉祥寺、三鷹、武蔵境という駅ができる。それから大正一一年に、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪の駅ができる。その直後に関東大震災が起こり、東京市の旧市街地で被災した人々が新開地であった中野から三鷹あたりまでの西郊に移り住む。杉並村の人口は大正九年から昭和五年の一〇年間で七倍近くに増えた。井伏鱒二らの小説家も多く移住してきたことは改めて言うまでもない。戦後も人口増加は続き、商店街が発展し、日本中から若い人たちが集まって、いわゆる「中央線文化」が形成されていった。
 だがそれ以前、大正時代前半までは、中央線沿線にはほとんど何もなかった。武蔵野の雑木林、田んぼや畑などが広がるだけだったのだ。その頃の中心は青梅街道や五日市街道などの、江戸時代以来の街道沿いだったのである。考えてみれば当然のことである。しかし現在の中央線があまりにも堂々と東京都を横断しているので、そのことに私たちは気づけなくなっているのである。
 昔の人々は、新宿追分を発つと、青梅街道を歩いて淀橋を渡った(淀橋の地名の由来は後述)。江戸時代の神田川は広かった。淀橋あたりでも、細かく蛇行しており、川原には葦が茂り、流域面積はかなり大きかったのだ(江戸図会、昔の地図入れる)。
 新宿追分から淀橋までは、神田川に向かっているので当然ながら道は坂を下がっていく。そして神田川を渡ると、けっこう急な坂を上る。中野坂上という丸ノ内線の駅名は嘘ではない。坂を上った先には鍋屋横丁。後述する堀之内の妙法寺に参詣する道であり、往時は水茶屋、料亭などが建ち並び、大変に栄えた。鍋屋の名も料亭の一つから取られている。
 鍋屋横丁は、丸ノ内線では新中野駅に当たるが、路面電車の時代には鍋屋横丁駅であった。どうもこの新中野とか東中野とかいった地名、駅名が、主要な駅を中心にした命名方法である。中野駅の東だから東中野駅という具体に命名されているが、最初は柏木駅と言った。それが東中野駅という名に変わると、どうしても中野駅の周辺部という印象を持ってしまう。周辺だから大したものはないだろうと思ってしまう。新中野といえば、中野よりも新しい場所だろうと誤解してしまう。それがまちの歴史に気づくきっかけを失わせている面があることに注意しなくてはならない。
 鍋屋横丁を西南に進んでいくと妙法寺の南の参道に至るが、さらに行くと杉並区堀之内の熊野神社、またさらにその先に大宮八幡がある。堀之内の熊野神社は善福寺川の北側の崖線の上にあり(写真)、近くには向山遺跡がある。善福寺川沿いには方南峰遺跡、済美台遺跡、松の木遺跡などもあり、川に沿った凱旋の上が縄文人、弥生人にとっての良好な「住まい」であったことがわかる。
 妙法寺は江戸時代から厄除けで有名で、多くの人々が「祖師参り」と称して参拝に訪れた。このように中野から杉並にかけては、かつては青梅街道が軸であり、そこから枝分かれした参道沿いにまちが栄えていたのである。

 
中略

 さて、長者橋から神田川をさかのぼっていくと、中野新橋に至る。中野新橋は、東京二三区内で花柳街のあった町としては最西端である。泥田の中に地主たちが昭和四年につくった街だ。当初はあまり栄えなかったが地下鉄の駅ができると、三六年には四〇軒を超える料亭ができ、繁栄の頂点を極めた。現在は料亭はなく、ジャズ喫茶に業態転換をした店もある。藤島部屋も中野新橋。先代の若乃花が杉並区成田東に双子山部屋を創設した後、中野新橋に移転してきたのである。
 旧料亭街の北には氷川神社があり、神社の南側の道は十貫坂で鍋屋横丁と交わり、西に進むと堀之内の熊野神社に通じる。
 鍋屋横丁から北上する道もふたつある。ひとつは真北に坂を上がっていく道で、現在はもみじ山通りと言われる。大久保通りを渡り、中野駅の東側に至る。
 もうひとつは北北西に坂を上がり、中野五叉路に至る。今は中野通りという広い道が中野駅まで通じているが、この道は新しいものの、本当は中野通りの西側、マルイの裏道が中野駅に至る古い道だ。中野駅も戦前は今より西に位置しており、この古い道こそが駅前通りであった。
 古い道であることを証拠づけるものとして、郵便局、町内会の集会所、米屋、酒屋などが集まっていることが挙げられる。中野通の裏通りにもそれらがある。また、塩、たばこ、切手などと書かれた古いホーロー看板を見つけたら、ほぼそこは古くからの地域の中心地であると考えてよい。
 この道の西側には高級な住宅地がある。これが先述した小淀と同様、戦前三井信託が開発分譲した中野桃園町の住宅地である(現在は中野三丁目という味気ない地名)。南斜面の良好な地形の上に、今もまだ戦前らしい古い家を見つけることができる。(写真)しかもここは華洲園と同様、将軍の御立場があった場所である。
 桃園の名も言うまでもなく徳川吉宗に由来する。鷹狩りに来た吉宗が、桃の花が咲くのをきれいに思い、あたり一帯にもっと桃の木を植えて桃園にせよと命じたのが始まりである。
 桃園町の北側の細い道も妙法寺道。歴史のありそうな骨董品屋はせんべい屋がある。しばらく歩くと坂であり、まがった道を下っていき、桃園川暗渠を渡ってさらに進むと、現在の東高円寺駅に至る。東高円寺駅のあった場所は、戦前の路面電車の駅名は、妙法寺口だったのである。
 以上、簡単だが新宿から中野方面にかけての地理と歴史を概観してきた。現在われわれはどうしても中央線を軸にしてこの地域を見てしまうが、それ以前には青梅街道を軸として、妙法寺、熊野神社、大宮八幡などの宗教施設に至るさまざまな道が地域の動線になっていて、その動線となる道がそれぞれに栄えていたということがわかってきたと思う。中央線の各駅から直線距離で二,三キロは離れているこれらの地域を歩いてみると、むしろ江戸から大正にかけての古い東京の郊外の姿があぶり出されてくるのである。

東京人 新連載 中央線がなかった時代 1 対談 抄録

対談 中央線がなかった時代

もしも中央線がなかったら。
陣内 「中央線がなかったら」という刺激的な視点ではじまる新連載ですが、これは、三浦さんと私の二人の共通の関心が、中央線沿線だったことがきっかけですね。
三浦 阿佐ヶ谷在住の陣内先生は、長年イタリアの都市の調査・研究をされ、最近では大学で日野の調査もしていますが、そしていま、原風景のある阿佐ヶ谷を研究したいとおっしゃる。僕は吉祥寺在住で、これまで吉祥寺、高円寺、に高円寺在住の方や、阿佐ヶ谷住宅などの取材をし、本をも出してきました。その過程で気がついたことが、中央線という鉄道が中央線沿線の地域を,ある意味で見えなくしているということです。
 けれど中央線は、東京都を東西にどーんと、しかもまっすぐに横断していて、それがあまりにも印象的なので、東京を考える時に、どうしても中央線を大前提にしてしまう。沿線に,書店、飲食店、サブカルチャー、ファッションなどの魅力的な集積があることも、鉄道中心に考えることを当然だと思わせてしまう。
 しかし、高円寺を広く歩き回ったり、阿佐ヶ谷住宅のあたりまで見たりすると、中央線からは離れたところに重要なポイントがあることに気がつくんですね。だから、中央線がなかったらこの地域がどう見えるか、という視点が面白い。
鉄道、沿線カルチャーという視点で論じ尽くされていました。それでブレインストーミングを重ねて出てきたものが、「中央線がなかったら」という考え方でした。
陣内 逆転の発想でしたね。
 山手線から外側の西に広がる中野区、杉並区、武蔵野市、多摩地域は、江戸の近郊農村だったところですが、明治末頃から昭和初期にかけて鉄道ができ、駅を中心に都市化が進みました。ですからいま、生活圏が成り立っているという理由で、鉄道を空間の軸に考える方が多いでしょう。でもその世界は、あとからつくられたものなんです。三浦さんがおっしゃるように、“逆転”させると本来の地域の深層がみえてくる。
三浦 いま、われわれぼくたちが対談を話しているところは、堀之内の妙法寺近くの寿司屋の二階ですが、こちらも高円寺駅から歩くと、三十分もかかります。だから高円寺駅の周辺が表で、妙法寺のほうが裏と考えられがちだけれど、歴史をたどれば、実はこちらが表で、あちらが裏。駅ができたところは、当時は何もなくて、土地が安くかったからて用地買収がしやすかったというだけの話でしょうす。妙法寺は青梅街道の鍋屋横丁という今も活気があるから入る参詣道を通って、江戸市中から厄除けのための参詣者たちが集っていた場所で、「江戸名所図会」にも描かれているます。古い歴史がある。網野義彦さんが日本地図の南北ををひっくり返すと、日本海が地中海のような内海に見えて、日本海違う文化圏と言うべきものが見えてくることを示したことがありますがと提唱した研究者がいましたが、そんなふうに中央線沿線の地域についても、新しい見方が提案できればいいなと思ったんです。
陣内 長年、近世(江戸)と近代(東京)を分断して歴史がとらえられていましたが、一九八○年以降、政治、生活、建築、文学などのさまざまな学術分野を横断し重ねて考えることで面白い成果がたくさんでてきました。それが江戸東京学であり、江戸東京博物館(一九九三年創立)の基盤になっていますが、運河や掘割など地形を生かしてできた江戸の都市構造を認識し、面白がって歩いてくれる人も増えました。
いっぽう江戸と東京をつなぐことに成功しても、山手線の内側ばかりに歴史を求め、郊外への視点は少なかった。さらに都心には、縄文時代の大森の貝塚や、麻布の善福寺、浅草の浅草寺など東京の中心部の重要なところに中世、古代のお寺や、神社、古道、遺跡の分布が身近にあるのに、存在が薄くてよく見えていない。それは近郊農村だった杉並区、武蔵野、多摩も同じで、もったいないことです。「中央線」を眼中からはずし、新しい視線で嘗めるように町を歩くことで、江戸の世界をはるかにこえた、中世、古代の大きな時間と空間のスケールで、東京の隠れた魅力が浮上すると思います。

川、湧水、神社、古道などから、
古代・中世の歴史を探る。
三浦 実際に、江戸以前の古代、中世の世界を探る手法として、まず先生が指摘される、川や湧き水(湧水)、神社、古道に注目する視点は、おもしろいと思いました。私も曲がりくねった道が好きですが、それが江戸時代、中世、古代からあるかと思うと、また街歩きの面白さが倍加します。
陣内 中沢新一さんは著書『アースダイバー』で、宗教空間、お墓を縄文地図にマッピングして、彼独自の視点で、東京の古層に光を当てています。いっぽう我々はずっと「古道」が面白いと思っていました。古道は、必ずいい場所に通っているんです。
三浦 実際に調査されたのは、いつごろのことですか。
陣内 一九九七年と九八年にかけて杉並区の調査をしています。紀元前一五○○年からローマに滅ぼされる紀元前三○○年まで続いたサルデーニャの文明の調査をしたことがきっかけです。その地域では、湧き水を大事にしてそこに聖域(後の時代も重要な場所となっていた)をつくり、それら聖域を結ぶ古道を今でも辿ることができました。日本に戻ってきて、湧水、聖域、古道に注視して杉並区で応用したら、見事に当てはまったんです。
三浦 僕は、川の暗渠をたどって歩くことも好きすきなのですが、「川」も東京の都市の構造を知る上で、欠かせないものですよね。
陣内 ええ。近代の開発で見えづらくなっていますが、東京にたくさんある川とセットにしながら地形に目をむけると、武蔵野や多摩にかけて本当の都市の骨格、風景が見えてくるんですよ。
たとえば杉並区でも桃園川は暗渠になっていますが、妙法寺川、善福寺川、神田川の四つの川が流れ、放射状になっている。
三浦 鉄道は近代になってからのインフラですが、地域の構造を決めていた、それまでの重要なインフラは街道と「川」なんですね。しかし昔の地図をよく見ると、街道などの道が川に沿って、山と谷の地形に沿って存在することがわかりますね。
陣内 そうです。人々の生活には水が必要なので、川の周辺の少し小高く安全なところに人間が住みます。しかも、東京は古来から崖線が多く、川沿いに侵食されて崖があり、そこに水が湧く(湧水)。すると、その近くに神社、聖域ができ、その周りに人が住み、近世の集落につながっていくのです。善福寺川沿いには、古墳、縄文、弥生の遺跡も発見されています。
大宮八幡宮がいい例で、善福寺川沿いのちょっと高いところにありますが、発見してうれしかったのは、境内に水が湧くんですよ。いまもペットボトルを持って水を汲みに行く方が多いようです。大宮八幡宮から北に向かって中世の古道が延び、その途中に松ノ木古墳があり、杉並区のもう一つの宗教の中心である阿佐ヶ谷神明とを結んでいます。さらに北にいくと円光寺があります。
三浦 大宮八幡宮は、一○六三年創建というから、その頃からの中世の古道を今も歩くことができるのですね。浜田山駅前には鎌倉通りという名前も残っていますね。僕がこの連載で担当するエリアのフィールドワークでは、歴史をさかのぼっていく意味で、東西にまっすぐな中央線に対して、南北に延びる、なるべく古い道を探しながら、新宿~中野~高円寺~方南町を歩いています。考えてみれば、鎌倉は東京の南にあるから、南北の道が発達するのは当然です。
陣内 南北方向の道は、中世、古代にはけっこうあるんです。それが放射状にでているところに、お寺や神社があります。
駅ができた場所は、それらがない、まっ平らなところ。つまり、人が住めないところだったのです。
三浦 それ、重要ですね。昔の人家は崖の途中下につくられていることが多くて、不思議でした。今の感覚では、ふつう丘の上の一番高いところからが眺めもいいし、いい場所だと思いますよね。
陣内 そう。でも古い時代はそうではなかった。玉川上水などが江戸時代にできてから、上がいい場所へと転換していくのであって、もともと斜面が一番よいところだったのです。そういう意味で、中央線がなぜここを通ったか理由はあるでしょうが、障害物や密度が低いところをうまく通している感じはあります。
三浦 建設もスピーディで、あっという間にできたらしい。
昔の駅について言えば、地主自身がつくったり、了解が必要ですから、彼らが好むところにつくられていると思います。今は技術も発達して電車の騒音はさほどでもなくなりましたが、昔の列車は、蒸気で走っていましたから、うるさいだけでなく、くて煙たいし、公害をまき散らすものだと思われていたのでしょう。だから、地主さんの家のあるあたりには通さなかった。にあたるものでした。
陣内 だからでも、中央線ができたことによってけちらかされたところって、あまりないでしょう。きれいに古代、中世からあった神社や寺をさけてつくられているのには、感心します。
三浦 環八沿いにある光明院というお寺だけくらいでしょうかねですね。墓地が南北に分断されている。
陣内 駅ができた場所に注目しておもしろいのは、国立です。谷保八幡宮は武蔵野台地の際にあり、その崖線に水が湧くんです。そこに平安時代、神社ができ、周りに農村集落が形成され、近世には川から水をひいた用水路をネットワーク化された水の里をつくりました。少し高いところに甲州街道が通っていますが、そこに中世と近世の塊があるのです。その北に、大正十五(一九二六)年、中央線(甲武鉄道)が入り、理想的な学園都市ができ、モダンな都市計画がなされる。
三浦 国立は、もともと駅をつくる前提でつくられた町ですからね。駅から放射状に街路がある。それに比べると、吉祥寺は、駅を中心に眺めると変な町です。きれいな街路があるのに、中央線に対して斜めになっている。おかしいなと思うんですが、考えてみれば、中央線のほうが後からできたんですね。本来の街路は井の頭通りと五日市街道に対して直角だから、中央線から見ると斜めになっているだけ。電車の路線があとから斜めに入ってきている。私は武蔵野市民で吉祥寺が武蔵野市の中心だと思っているのですが、
 それと、武蔵野市役所は、なぜ吉祥寺駅から遠いところにあるのかも疑問だったんですが、と思うわけです。その理由は、駅ができる前に吉祥寺の村がで開けていたのは、今の武蔵境の北のほうだったから当然なんですねということがわかります。駅は後からできたんです。これは三鷹市にも当てはまりますね。
陣内 三鷹は、玉川上水と駅が、鉄道が交差していますが、北と南で建物が並んでいる方向が違うんです。つまり北が玉川上水に対して直角で、南は中央線に対して直角に建つ。古いほうは規定がされ、玉川上水に直角に敷地がわられている。つまり、南側のほうが、整備された新しい町なんですね。

受け継がれる
都市の遺伝子。
陣内 おもしろいのは、駅前商店街ができるメカニズムに注目すると、だいたい古い道の上にできていることです。やっぱり人が踏み潰してきた往来がある道に、商店街のポテンシャルは高い。特に阿佐ヶ谷南口にあるパールセンターは、クネクネまがっていますが、ここは実は歴史あって、かつて「権現みち」と呼ばれ、北は子の権現様へ南は堀之内妙法寺へと大勢の人たちがお参りする道筋。大宮八幡宮大鳥居前で鎌倉街道に接続する鎌倉古道であるといわれているんですよ。戦時中に疎開で取り壊しされた空間を基礎につくられたケヤキ並木の中杉通りが対になってありますが、古道のほうは裏に隠れているように見えるでしょう? でも、そちらは個性ある店が建ち並び、ひじょうに濃密です。やっといまはバランスよく店ができてきましたが。
三浦 細い裏道にのような通りが、表通りとして活気がある例は、裏原宿の裏原宿といわれる隠田商店街、渋谷川遊歩道(キャットストリート)などにもあてはまりますね。しかし実はそれが昔のメインストリートだった。
陣内 ええ。そしてこのパールセンターの中ほどには、庚申塚があって、建物が立て替えられても、その一階にきれいに納まり、みんなが花を供えています。ここは古道同士が交差するところなんです。だから神社や寺など宗教的な施設はもちろん、庚申塚や、道しるべなどを丁寧に見ていっても、都市の基層が探れます。
三浦 あと、僕が町を歩くときに注目するのは、古い米屋、と酒屋、とタバコ屋、郵便局、クリーニング屋に注目するんです。だいたいそれらが地主の家の近くの辻にそろっている。あとはほかにも今は消防団。ですが、火の見櫓などが昔の地図を見るとあったりします。中にはこういう重要な辻の米屋や酒屋は、地主さんが、ここだけはいじりたくないという意思があるのかな、建物も看板も古いままだったりします。また、歩くとき、家の表札にも注意していると、その土地の地主さんが誰なのかも想像がつきますよ。

東京人連載 橋本健二 階級都市

東京人連載 階級都市

 私は橋本健二氏にお会いしたことはないが、一度メールを差し上げたことがある。10年前、私が、洋泉社から『大人のための東京散歩案内』を出すために、半年ほど東京を歩き回っていたとき、散歩の後に行く居酒屋を探すためにインターネットを検索していると、何だかとてもいい居酒屋案内のページがある。それが氏のページだった。『現代日本の階級構造』などの著書を読んでいたので、あれ、あの橋本氏は居酒屋好きなのかと思い、メールを差し上げたのだ。
 その橋本氏の新著『階級都市』。一読して拙著『スカイツリー東京下町散歩』『郊外はこれからどうなる?』などと重複するところもあり、しかも『階級都市』で氏が歩いた地域と、私が『スカイツリー』で歩いた地域にも重なるところがあり、思わずにんまりとしてしまった。氏は社会学者、私も大学で社会学を学んだ。年齢もほぼ同じ。地方から東京に出てきた点も共通だ。
 氏の生育環境を私は存じ上げないが、私に関して言えば、東京に来てすぐに感じたことの最も重要なひとつは、東京には格差があるということであった。山の手には大きな邸宅があるのに、上野公園にはホームレスがたくさんいる。こういう歴然とした格差は地方では感じにくい。
 江戸では、下町には町人が住み、山の手には武士が住んだ。その伝統が今も受け継がれ、下町には比較的所得の少ない、主として労働者階級が住み、山の手には所得の多い、ホワイトカラーが多く住む。
 だが、近年その格差が拡大していると橋本氏は言う。1995年以来、港区民の所得は上昇し続け、足立、葛飾区民はやや下降気味。結果、最も所得の高い区と低い区の差は、95年の2.5倍から2009年は4.3倍にふくらんでいるというのだ。これは、港区民全員の所得が上がったというより、港区内にも住んでいた低所得層が再開発によって追い出され、代わって建設された高級タワーマンションに、新たに高所得層が流入してきたからである。
 江戸時代、武士は実は深川などの低地にも多く屋敷を構えていた。ところが明治以降、それらの地域は工場地帯となったため、高所得層は山の手に移住する。他方、山の手地域の川沿いなどにも、日常生活に必要な零細商工業者が住んでいた。この「交雑」こそが都市のあるべき姿だと橋本氏は主張する。ところが、近年の再開発は、零細商工業者を都心から追い出し、地域内の多様性が失われている。それは、都市の死なのではなかろうか。
 

東京人連載 ママチャリ

 『世界が賞賛した二本の町の秘密』、これは傑作である。笑える。まるで幕末や明治期に来日した外国人の日本日記のように、アメリカ人である著者の驚きに満ちている。
 本書は日本中の街にどこにでもあるママチャリに注目した本。カルチュラル・ランドスケープ史家、チェスター・リーブスの著書だ。彼は環境によい、持続可能な都市についてずっと考えてきた人だ。主著『メインストリートUSA』ではアメリカの商店街を研究した。車を使わず、歩いて回れる範囲に生活に必要な物が買える店があることの重要性を説いてきた。だから、彼はアメリカでも自転車によく乗るらしく、東京大学や東京芸術大学で教えるために来日したときも自分の自転車を持ってきた。
 ところが、彼の自転車は十八段変速のスポーツ自転車だった。そんな自転車は日本の街で生活をするにはそぐわない。むしろ、主婦や中高生がみんな乗っているママチャリこそが日本の街に最適であることに彼はすぐに気づく。
 ママチャリみたいなものって海外にないの?と、ママチャリを当たり前だと思っているわれわれは、とても訝しく思うだろう。しかし、たしかに外国映画にママチャリのようなものが出てくることはない。パリやニューヨークで見かけたこともない。
 ハンドルの前にかごが付いていたり、後輪の上に荷台があったり、しばしば荷台の上にもかごがあったり、子どもを前にも後ろにも乗せるイスが付いていたり、寒い日にはハンドルレバーにグローブのような風よけを着けたり、雨の日には傘を固定することができたり、そんな自転車は世界中どこにもないのだ。驚きながらリーブスは、日本中の街でママチャリを撮影する。こんなものが撮影の対象になるとは、日本人は誰も気づかなかった。
 その異邦人は、浮世絵を発見したゴッホらの西洋人のように目を丸くしてママチャリを見つめている。実際、リーブスの撮影した、雨の日に傘を固定して自転車に乗る女性の姿は、広重の描いた雨の永代橋の絵のように見えてくるから不思議だ。
 そして何より、このママチャリに乗って、われわれは買い物に行ったり、市役所や郵便局に用事を済ませに行ったり、通勤通学したりしている。ママチャリで行ける範囲に、商店や市役所や郵便局や学校や駅などがあるからこそ、われわれはママチャリを愛用するのだ。そしてママチャリで生活できる範囲をリーブスは「自転車町内」と名付ける。
 自転車町内の中で生活できるからこそ、無駄にガソリンを使わずに日本人は暮らしている。自転車のかごに乗せられる程度の買い物しかせず、したがって冷蔵庫も家もコンパクトで済む。アメリカなら、車のトランクに詰め込めるだけの大量の物をショッピングセンターで買ってしまう。トランク一杯に詰め込まれた物を入れるには巨大な冷蔵庫が必要であり、巨大なキッチンが必要である。しかしそれは無駄を生み出しているとリーブスは言う。ママチャリの国だからこそ日本は環境に優しい、持続可能な生活ができるのだ。
 私は、都市や建築の専門家が、このように日常生活に根ざして書いた本が好きだ。
 もう一冊は博士論文をベースにした大著、初田香生『都市の戦後』だが、分厚い外観とは異なり、その中身は戦後の闇市などの生活感溢れるまちの研究である。冒頭は吉祥寺について。老舗焼鳥屋と世界的カフェチェーンが並ぶ吉祥寺の裏通りの写真を載せて、闇市的なものとグローバリゼーション的な文化が重なり合うまちの魅力について語り出す。ちなみに筆者は、現在の吉祥寺はグローバリゼーションが勝ちすぎて、従来の魅力を失う危機に瀕していると思っているが、まあ、それはまた別の機会に論ずるとして、一般的に吉祥寺、下北沢、高円寺などのまちは、戦前からの歴史と最新の流行とが重層的に存在し、古いものも新しいものも同時に対等にまちに露出するところに面白さがあると言われている。
 また、吉祥寺などのように若者に人気のまちではないが、新橋、人形町、赤羽などのまちは、戦前、戦後の要素を色濃く残すことで、中高年の人気を保持している。
 それらのまちの魅力は、自然発生的なものであり、計画されてできるものではないと思われがちである。しかし本書は、そうした魅力ですら、「こうした都市計画や都市計画を望んだ人々がいるのもまた事実なのだ」と初田は書く。
 具体的には、石川栄耀。初田もまた共著者の一人だった、とても面白い大著『都市計画家 石川栄耀』で、都市計画の門外漢である私も石川の素晴らしい思想に触れることができたのだが、石川は「夜の都市計画」を企図し、商店街、露店なども含めた都市の魅力を計画しようとした。そうした石川の思想が渋谷、池袋、銀座などの具体的な都市計画にどう落とし込まれているかが本書を読むとよくわかる。
 石川は「商店街が単に商品を売り買いする以上の社会性を醸し出すことの重要性を訴えて」いたと初田は書く。それは私が「街育」(ルビ=まちいく)と呼んだものとも通ずるのではないか。人はまちを歩き、ママチャリで走り、遊び、生活し、働くことで人として育ち、人と人との関係を豊かなものに育てていくのである。石川とリーブス氏の対談があれば、読みたいものだ。


読売新聞連載 日本のデザイン

 戦後のインダストリアルデザインに大きな足跡を残した柳宗理が亡くなった。特に近年、デザインへの関心の高まりの中で再評価されてきた人物だ。 
 書店に行けばデザインを特集した雑誌がたくさんあるが、そうした中でも特にこの数年増えているのが日本の伝統的なデザインに関する情報である。具体的には、南部鉄器など、日本の各地方の工芸品をクローズアップしたもの、それらを評価した柳宗悦(柳宗理の父である)、および彼の唱道した民藝運動に関することなどだ。
 デザイン評論家の柏木博の『デザインの教科書』は、彼らしい近代デザイン史の通史だが、その第7章で柳を取り上げている。そこで重要なのは、「柳の視点は、生産者のものではなく、使う側のものであった」という点である。「歴史的に支配階級の使ってきたものではなく、民衆の使ってきた日常的工芸、つまりは民藝にこそ、使われてきたことの美しさがある」と柳は考えた。「こうした視点は、自国の民衆の再発見を意味する」と柏木は言う。
 戦前における柳の位置に今いるのは、あえていえばデザイナーの原研哉であろう。『日本のデザイン』の冒頭で彼は書いている。「日本は今、歴史的な転換点にある。」「明治維新以来、西洋化に経済文化の舵を切ってこの方、抑圧され続けてきたひとつの問いが、うっすらと、しかしながらしっかりと浮上しつつある。千数百年という時間の中で醸成されてきた日本の感受性を」「未来において取り戻してくことが、この国の可能性と誇りを保持していく上で有効ではないか」。
 日本人の感受性とは「繊細、丁寧、緻密、簡潔にものや環境をしつらえる」能力であり、そうした日本人の「美意識」「感覚資源」こそが世界に貢献できると原は言う。経済大国ではない、次の時代の日本の誇りを求める気持ちが、そこには強く感じられる。
 そしてそういう日本の美意識が現れた現代的なデザインとして、原は柳宗理のデザインした薬罐を例示し、こうしたデザインが静かながらも広く支持されている今という時代を、「目を三角にして『新しさ』を追い求めてきた僕らのアタマが、少し平熱にもどって、まともに日常の周囲を見渡すゆとりができた」時代だと評価する。
 こうしたデザイン論が出てくる背景はいろいろあるだろうが、短期的には3.11の大震災の影響もある。津波に流されるマイホームやマイカーを見て、物を所有することの空しさを感じた人が少なくあるまい。そこからは、いらない物を買わない、つくらない、昔から使われている物を大事に使う、そういうシンプルな暮らし方を求める気分が広がったのではないだろうか。
 そういう時代においてデザインは、不要な物を買いたいという欲望を駆り立てるためにではなく、「社会の中で共有される倫理的な側面」を打ち出すべきであり、「いかに魅力的なものを生み出すかではなく、それらを魅力的に味わう暮らしをいかに再興できるか」が今後の課題だと原は言う。これはもはや、単なる物のデザイン論を超えて、社会デザインの哲学とも言うべき考え方であろう。
 具体的な民藝品のガイドとしては『再発見 日本の民藝』が手軽である。ここでも著者は震災の影響を語り、「それまでもよりも多少は深く、古くから伝えられているものを守る、さらにそれを伝える、記録する、繋げていくことについて考えを巡らすことが出来た」と記している。あまりにも代償は大きかったが、これからの社会と生活のあり方を多くの人が見直すようになったことは、震災の、ほとんど唯一の成果であろう。


読売新聞連載 田中克彦『漢字が日本語をほろぼす』

 3.11の大震災によって、私たちは東北弁を毎日何度も聞くようになった。かつて東北弁は田舎の言葉としてからかわれることもあったが、毎日東北弁を聞いていると、なんともほっとするというか、正直そうなというか、いい音を持った言葉だなあと私は感じた。東北を応援する人々がこれほど多いのも、東北弁の言葉の魅力が一因ではないかとすら思う。
 期せずして、昨年亡くなった井上ひさしの『日本語教室』が震災と同時期に出た。東北出身の井上は、言葉、日本語、特に標準語と方言について考え続けるとともに、すぐれた言葉遊びによって、やまとことばの音の感覚を私たちに教えてくれた。彼が生きていたら、震災をどういう言葉で語ったか聞いてみたかった。
 また、東北で被災した人々の言葉に難しい漢字の言葉があったかというと、ほとんどないだろう。逆に、政府や東電の発表ではメルトダウンを「損傷」「溶解」と言い換えるなど、事実をくらませるために漢字の言葉が使われた。井上や次に述べる田中克彦が嫌うのは、まさにこうした言葉の使い方なのだ。
 田中克彦『漢字が日本語をほろぼす』、とパソコンで打つと勝手に「ほろぼす」を「滅ぼす」と変換した。
 実は私が本を出す時、一番うんざりするのが文字校正における表記の統一だ。典型的なのが「いう」か「言う」か。私は「人間という生き物」のときは「いう」、「私は彼に言う」ときは「言う」を使っているが、これを「いう」に統一しようと言われることが多い。
「~かどうか知らない」というときは「知る」だが、「~かしら」は本来「~か知らぬ」だからといって、「か知ら」と書くのはおかしいので、全部「しる」にすべきかしらんと悩む。「今」か「いま」か、どっちにするのか、今か今かと編集者に迫られることもしばしばだ。
 田中は「ことばと差別」の問題を考え続けてきた人だ。科挙以来の伝統で、日本でも漢字をたくさん読み書きできるほうが教養があると見なされ、受験や就職にも有利であり、結果として階層格差の拡大に結び付きやすい。そのため日本の子どもの学習時間の多くが漢字の読み書きに費やされる。読み書きは○×テストにしやすいからである。文章を読んで自分がどう思ったかを話す授業がもっとたくさんあるべきだと私は思うが、どう思ったかには点数をつけられない。だから授業であまり時間をかけない。だから自分を表現することが得意な人間が育ちにくいのだろうと私は思っている。
 さらに田中が指摘するのは、せっかく海外から日本に来た看護師が、『褥瘡』のような医学でしか使わない特殊な読み方ができないために、日本で看護師になるための試験に合格できないといった問題である。これは漢字が国際化を阻んでいる例である。
 最後に水谷静夫『曲がり角の日本語』。著者は五十年余り『岩波国語辞典』の編纂に加わった人物。必然的に近年の言葉の乱れに苦言を呈するが、その反面、客観的に日本語の将来を予測している。
 私自身は、文法が間違っているかどうかよりも、近年私たちの語彙が少なくなっていることのほうが問題だと感じている。筆者のまわりの若者は感動すると「やばい」「すごい」しか言わない。文法は多少間違っていてもいいから、もっといろいろな言葉を使って自分を表現して欲しいと思う。

読売新聞連載 小田切陽一『昭和 小田切陽一『昭和30〜40年代生まれはなぜ自殺に向かうのか』ほか

 わが国の自殺は山一証券、拓銀などの経営破綻のあった翌年の98年に急増、以後現在に至るまで毎年三万人以上の自殺者を記録している(警察庁調べ)。
 男女別に見ると増えたのは男性だけである。各年齢の人口を分母にした自殺率に見ると、40代、50代の男性の増え方が激しい。たとえば95年から03年にかけて45-49歳の自殺率は31.4から56.3へ。55~59歳のそれは41.1から71.1へと増加している(厚生労働省調べ)。
 自殺の原因は経済的要因が多い。2010年の男性の自殺23171件のうち、6711件は経済・生活問題である。女性は727件のみである。
 小田切陽一『昭和30~40年代生まれはなぜ自殺に向かうのか』によれば、さらに自殺未遂者が多い。消防庁の調べに寄れば、「自損行為」による救急・救助の搬送人数は2009年に52630人。自殺した男性の13%、女性の30%に自殺未遂歴があるというから、潜在的に自殺可能性を持つ人はかなり多いと言える。
 また小田切の出生コーホート(同じ年に生まれた人々の集団)分析よれば、昭和30年代生まれと40年代生まれで、自殺率が高まっているという。現在の37歳から56歳、会社で言えば部長から係長くらい、自営業なら二代目経営者などであろう。長期不況下におけるストレス、借金苦などがこのコーホートにおける自殺増の原因であろう。
 自殺を減らすにはどうしたらいいのか。小田切は「若いうちからワーク・ライフ・バランスを意識して、家族や友人、地域とのつながりを築き、維持していくことが大切であり、長い目で見れば有効な介護予防、自殺予防につながる」と提案する。
 では、そうしたつながりを築き、維持するにはどうしたらいいか。そのとき、ツイッター、フェイスブックといったソーシャルメディアが役に立つだろう。2009年の通信利用動向調査によると、60代の以上の世代でのネット利用が大幅に増えている。小川克彦『つながり進化論』によると、近年「趣味を通じて人と人がつながるシニア向けのSNS」が増えており、「人と人がリアルなコミュニティでつながるさまざまなイベントが提供されている」そうだ。
 仕事だけではない、多様で豊かな人間関係があれば、自殺は減らせるはずだ。これは噂に過ぎないが、ツイッターに熱心なのは40代だという。おそらく、会社としかつながれない40代が、それだけではまずいと思い、ツイッターにさまざまな出会いを求めているのではないかと思われる。それは究極的には、働くだけの人生、お金のためだけの人生以外の生きる意味の模索であろう。
 上田紀行の『生きる意味』は「私たちの社会はこれまで、年収や成績といった数字に表されるような指標によって、私たちを外側から見る成長観によって支えられてきた」が、今は「私たちの成長を内側から見る」「内的成長」という視点が重要だと言う。それはまさに「『生きる意味』の成長であ」り、「『内的成長』を支えるのは」「豊かなコミュニケーション」であると主張する。
 そして、豊かなコミュニケーションを促進する手法として上だが紹介するのは「ワークショップ型コミュニケーション」である。それは「独裁型のコミュニケーション」の反対であり、「参加する人々ひとりひとりの本音が引き出されてくるようなコミュニケーションである」と上田は言う。
 ツイッターやフェイスブックはそうしたコミュニケーションを促進することができるのではないだろうか。

 

 


 




東京人連載 平山洋介 「都市の条件」 

 本書は都市の問題を、都市に住み、生きる人間の問題、それを規定する社会経済問題とクロスさせながら、今後の都市と社会の持続性を考える意欲的な本であり、これまでに類書のない独自の本であると言える。
 東京圏などの大都市圏の拡大は、明治以来の地方から都市への人口集中によってもたらされている。とりわけ戦後、大都市に大量流入してきた人々の多くは20歳前後の若い世代であったため、彼らはすぐに結婚し、子どもをつくった。そして、子どもを育てるために、アパートから団地へ、団地から庭付き一戸建てへと移り住み、都心から郊外へと移住することによって、広大な大都市圏を発展させてきたのである。
 かつ、この時代においては、夫は仕事に専念し、妻は家事に専念するというライフスタイルが主流となったために、住居は都心から遠い郊外にあっても許容された。またそのライフスタイルを促進するような、住宅政策を含む各種の政策が打たれてきた。
 しかし、今日、人々は必ずしも20代で結婚、出産しなくなった。むしろ40代になっても未婚の人が増えている。なぜそれが可能かと言えば、親が買った家に住み続けられるからである。40代の未婚者が70代の親と暮らすというケースが増えているのだ。
 また、40代になっても未婚である理由のひとつには、男性でも正社員になれず、非正規雇用者となる人が増えたことなどにより、男性の所得が低下し、結果として結婚ができないということがある。
 女性も同様で、かつては会社の中で結婚相手を見つけることが容易だったのが、短期間で職場を変わる非正規雇用者が増えると、結婚相手を見つけづらくなった。そもそも女性は、セキュリティの問題、実家暮らしでない女性を採用したがらない企業の存在、独身寮の不足などから、男性よりも実家を出にくい。しかしもし良好な賃貸住宅、独身寮などがあれば、女性も、もちろん男性も、もっと都心に住むことができるだろう。
 他方、比較的高所得の男女は郊外の実家から都心に移住し、通勤時間の短いライフスタイル、華やかな消費生活を享受するだけでなく、異分野の人々との交流を深め、価値ある情報を得るチャンスを獲得していく。
 実は、都心近くの良好な住宅地には、高齢化した夫婦か単身者が広大な家に住んでいるケースも多い。それらの空間を何らかの形で高所得ではない若者に開放できれば、より多くの若者の人生に関する自由と選択の範囲が広がるだろう。都市を生きる人々は、住む場所を確保し、それを拠点として、ライフチャンス(就学、就職、転職、結婚、子育て、再婚、人間関係、情報、文化など)に接近するのであり、多くの人々が多くのチャンスに触れることができるほうが,社会も都市も持続的に発展できると著者は主張する。
 本書の内容はきわめて豊かで、実証データも豊富であり、そこから導き出される事実の数も非常に多いため、とても本稿ではすべてを紹介しきれない。まずは一読されたい。