惠ちゃんの「恋するベスト」の「殺陣師一代」を聴いていて、前から、台詞の「先生、でけました・・・・」の「先生」のイントネーションが気になっていました。
なつかしいというか・・・・。
(橋幸夫さんの曲からは、普通に大阪弁としか感じませんでした。違和感、特になし)
以前、知り合いに船場の元こいさん(次女)がいて、その人は一般に言われる早口の関西弁ではなく、はんなりとした船場言葉(下記)を話されていました。
服が古くなり、生地の表面が、けば立つ事を「ももける」とか・・・・。
心斎橋北詰の元祖きつねうどんの、「うさみ亭まつばや 」さんのご亭主、宇佐美さん(当時高齢のためもう息子さんの代か?)は暖簾をくぐると、店先レジ前にお座りになり、いつも「おいでやす」とはんなりとしたお声で、お客様にお声かけ。
そういう、船場言葉(なにわ言葉)を思い出しました。
そこで、この「殺陣師一代」について調べてみました。
作詞:佐伯孝夫
作曲:吉田正
発売:1967年
もともと戯曲「殺陣師段平」が元となっていて、その後映画もとられたようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BA%E9%99%A3%E5%B8%AB%E6%AE%B5%E5%B9%B3
http://www.raizofan.net/link4/movie5/tateshi.htm (映画)
新国劇、初演は1949年3月。
台本:長谷川幸延
市川段平:島田省吾
澤田正二郎:辰巳柳太郎、
動の辰巳、静の島田と言われ、二枚看板だったとあります。
映画では、大阪弁も河内弁ぽくあらくれもの的で,配役が、動静逆なのですが、舞台では少し違うように思います。(映画は、娯楽的要素が多いせいかも)
初期の新国劇の頭取であり殺陣師であった実在の人物、市川段平とありますので、頭取までしていた人が荒くれもの的というのはどうもしっくりきません。
殺陣に命を懸けた信念の人という方が良いような・・・・。
これ以上戯曲内容まで確かめられませんので、あくまでも私の感想ですが・・・。
惠ちゃんは、その真摯な段平の部分を、多めに表現していたのかなと思いました。
(こちらの画像は段平と関係ないですが、初演時43才なので、もう少し若いかも?他の画像はお年を召してからのものしかありませんでした。)・・・男前!

そして、原作は長谷川幸延(初演の台本家)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%B9%B8%E5%BB%B6
なんと、出身は大阪市曽根崎。まさに「曽根崎心中」の舞台。
ということは、大阪弁ではなく、なにわ言葉(船場言葉)を使われていたのでは・・・・・。
惠ちゃんは、意識してか、せずかわかりませんが、この船場言葉のテーストをうまくつかんでたと思います。なので、「曽根崎心中」の台詞も私には特に響いたと思います。
そういう、イントネーションを昔、聴いていたわけですから。
もちろん、時代的に近松の町人の台詞(徳兵衛)はこの船場言葉だとなりますね。
でも、惠ちゃんに船場言葉を誰かが教えたの?
ご自分で感じたままを表現されたの?・・・としたら、天才!!!・・・あ~びっくり。
船場言葉(せんばことば)/ウイキペディア参照
大阪市船場の商家で用いられた言葉。昭和中期まで、折り目正しい大阪弁の代表格として意識されていた。大阪弁研究家の前田勇は船場言葉について「大阪弁は庶民的な言語であるというのが通説であるけれども、少なくとも船場言葉にそれは当たらず、船場言葉は、いうべくば貴族的以外の何物でもない。」と評した。
江戸時代から近代初期にかけて、船場は天下の台所と称された大坂の中心地として繁栄し、船場言葉は商業社会の共通語として広く用いられた。豊臣秀吉が船場を開発した当初は堺から強制移住させられた商人が大半を占めていたが、その後は平野商人、京都の伏見商人らが台頭。江戸時代中期には近江商人が船場へ進出した。このような経緯から、船場言葉は各地商人の言葉が混ざり合って成立した。
商いという職業柄、丁寧かつ上品な言葉遣いが求められたため、京言葉(とりわけ御所言葉)の表現を多く取り入れ、独自のまろやかな語感・表現が発達した。
時代を経るうちに、はんなり女性的なしゃべり方に、スピードやテンポを重視する商都の合理的なしゃべり方が加わって、船場言葉は成立していったと考えられる。残念ながら、この純粋な船場言葉は、今ではほとんど耳にする機会はない。大阪市内に住む年輩のわずかな人たちが使う程度である。