■花粉が何故多い
昔々その昔、
椎木林のその奥に、
大きな山があったとさ、
あったとさ。
丸々坊主のその山は、
いつでもみんなの笑いもの、
これこれ杉の子起きなさい、
お日様、やさしく声かけた、
声かけた。
ご存じだろうか、終戦後に流行った「お山の杉の子」という歌である。
この歌を銭湯の行き帰りに、母がよく歌ってくれた。それを思い出すと、いまでも目頭が熱くなる。
この歌が生まれた理由――
列島すべてが焼け野原となり、建築資材が多量に必要なため、日本中の山を緑にする国策として杉を植える一環としてつくられた。
今でも残る「植樹祭」は、この運動の名残でもある。
■「植樹」の必要性
どうしてこの歌が必要になったのか?
戦後の復興はもちろんだが、それより以前に、この歌の陰には日本中が焼夷弾(しょういだん)で焼き尽くされた現実が横たわることを知らなければならない。
太平洋戦争の前、対日戦を予定して日本には数多くの米国スパイがやってきていた。彼らは8ミリフィルムで日本全土を映していった。
戦争不可避になると同時に日本総攻撃の戦略が立案される。
列島のすべてが紙と木材でできている日本。その現実に米国は驚きをもって街々を調べあげた。
そして、米国陸軍航空隊・戦略爆撃の責任者だったマクナマラ(後のケネディ政権国防長官)は、無差別絨毯爆撃(むさべつじゅうたんばくげき)の可能性に言及、その戦略的有効性を主張する。
仮に日本本土へ進行し、市街戦となった場合
・日本は「腹切り」を文化としている。
・日本陸軍の38式歩兵銃は優秀、南部拳銃も性能は素晴らしい。
この2点からも、かなりの米軍被害が出るという予測から、南方の島から長距離爆撃が望ましいという結論に至った。
その爆撃機は1万メートルの航空を飛べば、酸素の薄い超高空、気化器がつくれず、酸素マスクの装備がない日本の戦闘機は追い付くことができない。そしてサイパン、テニアンから爆弾を積載して往復する航続距離を飛ぶことができる爆撃機、こうした航空機の設計が始まったのが1935年だった。
計画の秘密名は「プロジェクトA」。
さらに効果的に日本全土を焼き払うには硫黄(いおう)がもっとも効率的と結論が出て、「焼夷弾」が開発された。B29が完成し、すべてが整ったのが1944年だった。
その時期に合わせて米国は南方から島伝いに日本守備隊を撃破。ついにテニアン、ガム、硫黄島を攻略して本土爆撃を可能にする。日本側は米国のこうした戦略をまったく理解しなかった。戦術ばかりで戦略の意味を知らなかったのだ。
ラバウルに全航空線力を結集するが、米国はラバウルなどまったく眼中になかった。本土を焼き殺すことが戦略的優先課題だったため、ラバウルなど必要なかったのである。
■焦土作戦
米国はB29をドイツ戦に使用することなど考えもしなかった。航続距離8000キロも飛ぶ戦略爆撃機など、陸続きの欧州では必要なかったからである。かつしかも、B29は原子爆弾すら搭載できるものとして当初から計画されたものであった。
こうしてドイツ戦で功績をあげた空軍指揮官カーチス・ルメイを日本焦土作戦の責任者として着任させる。黄色人種を嫌う彼は、国際戦時法規を破って民間人を殺すことを考える。それが日本を降伏させる早道と考えたからだ。
彼が日本に投下した焼夷弾は14万7000トン。8万人を焼き殺し、100万人の人間を路頭に迷わせ、そうして全土を焦土とし、すべての山々をはげ山にして米国は勝利した。
この悲しい話の結末が、杉の植林と現在のスギ花粉につながる。
スギ花粉は、日本が背負った悲しい政治の貧困の結果なのである。そして焦土を諦めずに復興させた、先輩たちの努力の結晶なのだ。
こうした歴史が存在することを我々は知らなければいけない。
さらにまた、戦術という短期計画だけで対応してきた日本は、いまだにその弊害を除去できずにいる。戦略という長期計画をつくることができない愚かな官僚たちと政治家の群れ。経営者も同様な小者ばかり。ソニーの井深、盛田。ホンダ・本田宗一郎、東芝・土光利光、経団連の桜田武。数少ない天才たちがこの国をつくってきた。
僕は右翼でないけれど、加えて皇室のすばらしさ、昭和天皇、平成天皇のすばらしさに敬服する。このお二人は第一級の戦略家である。
スギ花粉はつらい。でもその中に息づく国家再建の意思をくみとりたい。