キリスト教徒の目の鱗

キリスト教徒の目の鱗

パウロが付けた新たな目の鱗

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新約聖書には十字架を目前にしたイエスの嘆きに関する場面が3箇所出てきます。

①都入り
ルカによる福音書 第19章41-44節
「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた。
「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら…
しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。

②ゲッセマネの園
マタイによる福音書 第26章38節
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。」

③ゴルゴダの丘へ
ルカによる福音書 23章28節
イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。」


この三つの嘆きに関して一般的な解釈は、


①イエスはイスラエルが後に滅びることを予見して泣いた。

③同じく、イエスはイスラエルの行く末を案じて言った。

 

しかし②だけは何故、

同じようにイエスはイスラエルが後に滅びることを予見して嘆いたとは考えないのか?

「死ぬほど悲しんだ」のはイスラエルの行く末を案じてであったと解釈する神学者はいないのか?


それは丁度、創世記18/23-32でアブラハムが、ソドムとゴモラを滅ぼそうとする神へ、

「ここに10人の義人がいたら、それでも滅ぼすのですか」と訴えた場面と同じではないか、と考える神学者はいないのか?

 

写真1:イエスのゲッセマネの祈り(映画「パッション」)

 

写真2:アブラハムの神への談判(映画「天地創造」)


写真3:助けられなかったユダヤ人を思い泣くシンドラー(「知ってるつもり~シンドラーと杉原千畝」)


イエスは、自分が死ぬ事によって後のユダヤ人たちが国を滅ぼされ悲惨な歴史を辿ることを予知していなかっただろうか?
イエスは後に彼らが遭遇する悲劇を思い悩まなかっただろうか?
助けることの出来なかったユダヤ人のために号泣したシンドラーのように。
少なくともそれを否定するものは何もない。

ゲッセマネの祈りの中に、かつてのアブラハムのように、
「主よ、もしここに10人の義人がいたとしても、それでも滅ぼされますか?」
とイエスが祈らなかったと誰が証明できようか?

そのために12人(実際は11人)の弟子たちと共に神に祈ろうとしたのではないか?